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" Thirty-six Views of Mt. Fuji/Lower Meguro " Hokusai Katsushika

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鍬を担いだ農夫が山道を登りかけているこの図を見れば、今日の江戸の人は「この絵はいったい何だ、ここは下目黒だぜ。」と言いたくなるに違いない。
目黒を題材にした浮世絵は意外に多く、これらに描かれた当時の目黒の風景を見ると北斎のこの図にも納得がいく。

中でも歌川広重は、『名所江戸百景』で「目黒新富士」、「目黒元不二」、「目黒太鼓橋夕日の岡」、「目黒千代か池」、「目黒爺々が茶屋」の5作を、『富士三十六景』で「東都目黒夕日か岡」、「目黒行人坂富士」の2作を、『『江戸名勝図会』で「駒場野」を、『江戸名所』で「目黒不動」を、さらには、三代目豊国と二代目広重との合作の『江戸自慢三十六興』で「目黒不動餅花」、「目黒行人坂富士」の2作を、と多作である。
また、『江戸名所図会 三巻』には「目黒不動堂」の図や、「目黒飴」というこの地の名物の土産物店の図が載っている。

これらの図から分かることは、当時の目黒には鷹狩りが出来るほどの広大な荒れ野があり、起伏の多い農村地帯でもあったこと、新富士や元富士と呼ばれる富士講の信者が築いた富士塚があったこと、などである。
また、天台宗泰叡山護國院瀧泉寺、通称目黒不動尊という名所古刹でも地名が知られていたようである。 この目黒不動尊は大同3年 (808年)に天台座主第三祖の慈覚大師圓仁が開山した関東最古の不動霊場であり、今日も下目黒にあり、名刹を誇っている。
広重の描いた人工の「新富士」も「元富士も」かなりの高さで、そこから富士が眺望できたらしい。 目黒一帯は農村地帯だったが、下目黒村と中目黒村には茶店、料理屋などがあり、江戸の人びとが楽しんだ観光名所・目黒不動の門前町でもあった 

だが、下目黒をもって江戸っ子を気負う方たちに少し難癖をつけたい(笑)ので、話を脱線させる。
江戸時代の下目黒が江戸なのかどうか、と言うことである。 いやいや江戸は江戸なのは当たり前だが、当時の江戸人が感覚的に江戸だと思っていたのか、についてである。
江戸時代後期に「朱引(しゅびき)」と言う言葉があった。 端的に言えば「朱引内」は江戸のうちに入り、「朱引外」は「そこはもう江戸じゃねぇぞ」と言う、当時の江戸人たちの気分を表しただけでなく、実際の行政的区分を示す言葉でもあった。

ことの起こりは、江戸幕府が文政元年(1818)に江戸の範囲を定めて、地図上に朱色線(朱引)を引いたことに始まる。
18世紀初頭に江戸の人口は100万人を突破し、その後も江戸の街は広がり続け、1800年代の初め頃にはどこからどこまでが江戸なのか、はっきりしなくなっていた。
そこで幕府は「旧江戸朱引内図」を作成し、その地図上に朱色線(朱引)で囲んだ区域を江戸の範囲として示した。
「朱引内(しゅびきうち)」は「大江戸」とも「御府内」とも呼ばれ、この範囲が「江戸」なのである。
ところが、目黒の地域では下目黒村と中目黒村は「朱引外(しゅびきそと)」に区分されたのである。 その理由は諸説あるがややこしいので省く。 いずれにしろ下目黒は「朱引内」の江戸ではないのである。
「朱引内」については、司馬遼太郎さんの『街道を行く』シリーズの第37巻「本郷界隈」の中の「見返坂」の項で、夏目漱石の事に触れ、彼の時代の明治後期でもまだ現役の言葉だったと書いている。

ともあれ、巨大都市江戸の住民が「江戸っ子」と自らを誇る気分は何も日本だけでなく、パリにも「パリジェンヌ」、「パリジャン」という言い方があるように、田舎を小馬鹿にするような気分は民族を問わない人間の通癖ではなかろうか。 脱線の度が過ぎた。

さて、目黒のお狩場は今日の東大教養学部の駒場キャンパスとなるが、そのお狩場に絡んだ落語「目黒のさんま」と言うのがある。
鷹狩りを楽しんだ将軍(吉宗という説があるが定かではない)が、実在した「目黒爺々が茶屋」に度々立ち寄った事をもとにして創られた落語である。
広重の作品にも同名の画題『名所江戸百景 目黒爺々が茶屋』があるのは既に述べた。
史料としても、「目黒爺々が茶屋」の子孫の島村家に、元文3年(1738)年4月13日の鷹狩の時に吉宗が訪れた記録が残る(御成之節記録覚)

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