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"Thirty-six views of Mt. Fuji/Lake Suwa in Shinano Province" "hokusai Katsushika"
¥3,900
富嶽三十六景シリーズは藍摺りが10作品あり、これはそのうちの一枚で、この10作品は当初出版が藍摺りで、その後の版が色摺りとなったようである。そもそも藍摺りとは何なのか? 本来、日本では青色はツユクサや本藍から作った顔料を使用していた。これは植物由来で褪色しやすかった。 江戸後期になるとドイツで開発された化学合成顔料のベロ藍が輸入され、その発色が格段に美しく大流行した。ベロ藍とは「ベルリン藍」がなまった言葉で、世界的には今日でも「プルシャンブルー」で通用している。 「プルシャンブルー」とは「プロシア(ドイツ語ではプロイセン)のブルー(青)」と言う意味です。いわゆる「北斎ブルー」と喧伝されるようになったのは、このシリーズの藍摺りの発色が見事で海外の画家たちが高く評価したからです。 しかしよく考えてみると、海外由来の顔料の発色が海外で高く評価されるというのもおかしな話で、これは単に藍摺りの発色だけでなく、青色の使い方や構図などの芸術性の高さなどを含めて「北斎ブルー」が造語されたとみてよいのではないだろうか。 浮世絵に初めてベロ藍を使用したのは北斎ではなく、渓齊英泉であった事を指摘しておかねば「北斎ブルー」の由来も誤解されかねない。 遠景に富士を配し、近景に松の木と社(やしろ)、その間には諏訪湖が広々として静まりかえっている。社の周りには「藁にお」(前回投稿の『相州梅澤左』に触れています)が積まれているので晩秋の風景であろう。 この『信州諏訪湖』は、見事なまでの澄み切った美しさが藍摺りで表現されている。 中央に見える城は諏訪高島城で、かっては武田氏の諏訪地方支配の拠点であった。
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"Thirty-six Views of Mt. Fuji/Dawn at Isawa in Kai Province " "Hokusai Katsushika"
¥3,900
伊沢とは現在の石和(山梨県笛吹市)のことで、古くは石禾、井沢、伊雑とも表記していた。 現在でも地図を見ればよく分かるが、この辺りは笛吹川水系のたくさんの川が流れていて、古くから荒れた湿地帯でした。 その湿地帯の沢には畳表などに使われる藺草(いぐさ)が群生していて、「藺(い)の沢」と呼ばれていたのが地名の由来らしい。 武田氏初代当主、武田信義の五男・武田五郎信光は甲斐国八代郡石和荘に石和館を構えて石和五郎と称し、甲斐国・安芸国の守護であった。 武田信玄の父・信虎の時に甲府の躑躅ヶ崎(つつじがさき)に移るまでは、石和が甲斐武田氏の本拠地であった。 余談ながら、広島市安佐南区の武田山に佐東銀山城跡があり、この城は安芸国守護・安芸武田氏の本拠地であったが、天文10年(1541年)の毛利元就との戦いで安芸武田氏は滅亡する。 伊沢は今では石和温泉としてよくしられている土地ですが、温泉は昭和36年に湧出したもので、江戸時代には温泉はなく、甲州街道の宿場町として大変栄えていたようです。 この図は甲州街道伊沢宿の払暁の旅人の出立風景を描いたもので、僅かに旅籠の窓明かりが漏れる薄暗がりの中で、慌ただしく人びとが立ち騒ぐ声が聞こえてきそうな図です。 伊沢からは真南の方角には富士が黒々と佇み、棚引く雲海の手前に笛吹川(鵜飼川とも)が流れている。旅人のほとんどが右の方向に向かっているので、この場所は次の宿場甲府柳町へ向かう伊沢宿の西はずれであることが分かります。 彼方には橋が見えますが、笛吹川を渡る鎌倉往還の木橋です。 甲州街道と鎌倉往還はこの伊沢宿で合流しているのですが、その正確な場所を現在の地図上で説明します。 甲府から伊沢までの甲州街道は国道411号線とほぼ同じで、この道を甲府から大月市方向(江戸方向)に進んで石和温泉駅入口交差点を直進し、更に進むと遠妙寺三叉路交差点に至る。 ここを直進すると現在は笛吹川通り(国道411号線)と通称される甲州街道で、そのまま大月市に向かう。 この三叉路を右の方に曲がると通称鵜飼橋通りと言われる鎌倉往還に入り、そのまま進むとすぐに鵜飼橋に至る。 図に見える木橋は現在の鵜飼橋とほぼ同じ位置であったと思われます。 鎌倉往還の甲府への道筋は、鎌倉から小田原を経由して足柄峠を越え、富士の東側の山裾を御殿場・須走・「籠坂峠」・山中湖・河口湖と通過し、御坂峠を越えて漸く甲府盆地へ至る。 道中の「籠坂峠」は通称を「三嶌越」と言い、北斎の『富嶽三十六景 甲州三嶌越』に描かれている峠です。 旅人たちが手をつないでその大きさを測っている杉の巨木を図の中央に据え、その彼方に富士山が描かれている図で以前に投稿した作品です。 ところが、この杉の巨木は「籠坂峠」に存在した形跡が全くなく、実は北斎が構図を面白くするために、甲州街道の方の「笹子峠」に今も存在する「矢立の杉」を持ってきたのではないか、というエピソードがあるのです。 この図は、企画された『富嶽三十六景』36図が出版完了した後に追加出版された、通称「裏富士」と言われる10図のうちの一枚です。 「裏富士」ものは、主版(おもはん)と言う輪郭線の顔料に、36図で使われた「ベロ藍」ではなく墨を使っているので簡単に判別できます。
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"Tsukuda Island in Musashi Province " "Hokusai Katsushika"
¥3,300
現在の「東京都中央区佃1丁目」の辺りが、この図に描かれた佃島である。当時は、隅田川河口に近い永代橋から富士を眺めれば、右側に佃島、そのすぐ左側には石川島が見えた。 この図では、右手の家が建ち並ぶ小さい方の島が佃島で、左の木立に囲まれたのが石川島。 佃島は、正保元年(1644)に摂津国佃村(現・大阪府西淀川区佃)の漁師たちが江戸に呼び寄せられ、隅田川河口の寄州を埋め立てて作った島です。その事情は徳川家康に関係するが後で触れる。 古地図『新撰増補大坂大絵図』(1691年)には神崎川の中州に「佃田村」が見られる。 度々引用するが、斎藤月岑の『江戸名所図会』には佃島の図が3図あり、白魚漁の様子や海上交通の盛んな様子が描かれている。 そのうちの『佃島 白魚網』にたくさん描かれている「四手網」漁は、水深の浅い場所で小魚などを獲る漁法で、「四手網」と言う四角形の敷網を沈めておいて、漁火などで小魚をおびき寄せて網を引き上げる。 この「四手網」は、歌麿の3枚組絵「四手網」と言う作品では、一種の観光漁船遊びと言う趣で描かれている。 初代歌川広重の『名所江戸百景 第四景 永代橋佃しま』と言う図も、永代橋の橋下から佃島の方角を眺めた夜景であるが、漁火を焚きながら白魚漁をする四手網が描かれている。 同じく初代歌川広重の『東都名所佃島入船ノ図』には、五大力船と呼ばれる廻船など大小様々な船が描かれているが、この図の左端にも「四手網」漁をする小舟が描かれている。 また、二代目歌川広重には、佃島住吉神社から対岸を眺めた『江戸名所四十八景三十 佃しま』と言う図がある。 今日でも使われている「江戸前」とは、魚影が豊富であった江戸湾の漁場のことであるが、狭義には、かって存在した「江戸前島」や「佃島」周辺を指した。 我々の知る佃煮の始まりはこの佃島にあるが、傷みの早い白魚の保存食がその始まりかも知れない。 隣の石川島は元々あった島で、江戸時代初期には「森島」または「鎧島」と呼ばれていた、と前出の『江戸名所図会』には書かれている。 3代将軍家光の時代に、旗本石川正次がこの島を拝領し、その屋敷もあったので、石川島と呼ばれるようになった。 石川正次は2代将軍秀忠の時代に御船奉行として幕府水軍を率いる役目であった。時代は下って嘉永6年(1853)に、幕府は石川島に造船所を設置し、軍艦を建造した。 これが現在のIHI(石川島播磨重工業)の前身となった。 幕府の御船奉行の家名が現代の造船会社に引き継がれていく、と言う因縁めいた話である。 この図は『富嶽三十六景』シリーズの中の藍摺り10枚のうちの1枚で、後で色摺りも出版されている。 富士は隅田川河口から南西の方角に見え、左に伸びる富士の稜線の手前には伊豆半島の付け根の山々が見える。 一番手前に見えているはずの三浦半島には標高200mそこそこの山しかない。 従って、石川島の真向こう遠くに見えるこんもりとした山は、おそらく伊豆半島の天城山(標高1405m)ではないかと思われる。 図の中央手前に大きく描かれた舟の積荷は何であろうか? 三角に高く積み上げられて、遠景の富士と相似を為している。 ベロ藍で美しく仕上げられた図は、いかにも江戸前の広々とした湾の物産が盛んな様子を、それぞれの舟の姿と林立させた帆柱で見事に表現している。 さて、江戸佃島の始まりのことである。 徳川家康が慶長8年(1603年)に江戸幕府を開いたとき、摂津国佃村の名主森孫右衛門一族7名と漁民33名を江戸に呼び寄せ、隅田川の砂州を埋め立てさせて漁村を作った。 わざわざ摂津国の漁民を呼び寄せた理由は次のようである。 天正10年(1582年)に明智光秀による「本能寺の変」が起こったとき、織田信長に招かれて上洛していた徳川家康は、摂津国堺見物を済ませ、京都へ上洛する途中の河内国飯盛山付近(現・大阪府四條畷市)で信長の横死を知ったに。 一刻も早く家康の本拠地岡崎城に戻らねばならない。 明智勢の追及を避けながら、主従僅かな人数での逃避行は実に危険であった。 そのときに摂津国佃村の漁民たちが家康の逃避行に力を貸したので、家康はその恩義に報いるために江戸に呼び寄せ、漁業的特権を与えた、と言うのである。 似た話は、家康一行の「伊賀越え」の逃避行にもあり、この時、服部半蔵を始めとする伊賀者や甲賀者が手助けをしたので、両者とも家康に召し抱えられる事になった。 お庭番、即ち伊賀・甲賀者の忍者と言うような俗説がまかり通っているようだが、お庭番とは8代将軍吉宗が新しく設けた幕府の職制で、平たく言えば、伊賀・甲賀者が隠密として使い物にならなくなったので、新しい職制を導入したのが実情らしい。
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"Thirty-Six Views of Mt. Fuji/Sundai, Edo" Hokusai Katsushika
¥2,700
「東都」とは西の都・京都に対して江戸を表す言葉であるが、言葉の響きにはますます拓けゆく江戸を誇る気分が漂っている。 「駿臺」は言うまでもなく駿河臺を縮めたものである。 駿河台の名前の由来は後述するが、ここは武家屋敷が密集する高台であった。 駿河(静岡県の中部)は家康の本拠地であり、この地で没してもいるので、家康が「神君」と呼称されたこの時代の江戸人たちには「駿河」の言葉は特別の価値を持っていたのではあるまいか。 秀吉などが「神君」などと言う仰々しい呼称を聞けば、「ほお、あのタヌキ爺ぃは死んで神様になったのか」と呆れるに違いない。 『東都駿河臺』と言わずに『東都駿臺』と縮めた言い方に、「おうよ、ここがその江戸の駿台よ」と言うような気負いが感じられる。 神田駿河台と本郷湯島台とはもともと一つの本郷台地であったが、元和6年(1620)、二代将軍徳川秀忠の命を受けた仙台候伊達政宗が仙台堀を開削し、二つに分かれた。 千駄木辺りから南に向かって西洋人の鼻みたいにだらりと垂れ下がる本郷台地の先端を仙台堀が切り取って神田駿河台に分けて隅田川に流れ込む。 やがて仙台堀は神田川と呼ばれるようになり、今日でも神田駿河台と本郷・湯島の間を分かつように流れている。 尤も、江戸人の優越意識をくすぐった駿河台の呼び名も、現在では千代田区神田駿河台一丁目・二丁目と格下げになってしまっている。 さて駿河台の名前の由来のことである。 『江戸名所図会』によれば、駿河台は「昔は神田の臺と云う。此の所より富士峯を望むに掌上に視るの如し。故に此の名ありと言えり。 一説に昔駿府の御城御在番の衆に賜りし地なる故に号とすといへども、證(あかし)なし。」と記されている。 今日でも駿河台の名の由来を、家康の没後に家康付を解かれた旗本(駿河城在番衆)たちが江戸にもどって与えられた土地なので駿河台と称した、と言う説がまかり通っている。 しかし、『江戸名所図会』で「證(証、あかし)なし」とするのを覆す根拠を少なくとも私は知らない。 旧字の「臺」は訓では「うてな」と読み、例えば「蓮のうてな」と言えば立像や座像の仏像が据えられている、蓮の花びらに囲まれた台座のことであり、あるいは台地のことである。 神田駿河臺の場合、台地の上に富士すなわち駿河が乗っかって見えるから「駿河臺」と称された、と自然に考えてよいのではないか。 どうしても駿河城在番衆移住説に拘るなら、江戸切絵図などで駿河台一帯に「駿河城在番衆」の屋敷を見つけなければ証明できない。 家康の死後に駿河城在番の任務を解かれた、そこそこ数の在番衆が江戸に戻って駿河台に屋敷を構えたはずである。 後年、駿府勤番となって駿府に赴任した榊原香山が天明3年(1783)に著した『駿河国志 8巻』(国会図書館デジタルコレクション所蔵)には、在番衆の記録がある。 寛永9年より明和7年までの駿河在番の武士名などの記録である。 駿河台に移った在番衆の子孫がその任務を引き継いで派遣された可能性もある。 「駿河台」の由来を想像させるもう一つの事実がある。 『駿河台小川町絵図』(嘉永3)の駿河台の場所には、「駿河守」の屋敷が三つある。 信濃高遠藩内藤駿河守(3万3千石)の上屋敷、今治藩久松松平駿河守(3万5千石)の上屋敷、平賀駿河守の屋鋪がそれである。 平賀駿河守(勝足)は大目付で岩場高級官僚であり屋鋪も小さいが、内藤駿河守と久松松平駿河守はれっきとした大名でその上屋敷は広大である。 内藤駿河守については『富嶽三十六景 駿州大野新田』の解説で既に触れたが、東京新宿の地名の由来となった大名である。 久松松平駿河守は家康の母「於大の方」が知多郡阿古居城主久松俊勝に再嫁した家であり、家康は久松家に松平を名乗らせて厚遇した。 「駿台」の由来に拘って字数を費やしてしまった。 この図は仙台堀(神田川)の向こう側に不二が見えるので、湯島側から眺めた図である。 駿台の高台には武家屋敷の屋根瓦のみが見えるが、北斉は瓦屋根の表現にほとんど濃紺を使っているのに、この図では珍しく茶色に仕上げている。 暑い夏の陽に焼けた屋根を表現するためにこの色を採用したのであろうか、大きな荷物を運ぶ行商人は頭上に扇子をかざして日差しを避けている。 彼方に不二を臨む空はうだるような暑さを表して赤く濁っている。不二の冠雪の多さが気になるが或は初夏なのか。 仙台堀の掘削の跡が荒々しく表現されて見事なのは摺師の技に拠る。
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Thirty-Six Views of Mt. Fuji/Nihonbashi bridge in Edo" Hokusai Katsushika
¥2,700
政治家が最優先政策課題を言い表すのに「一丁目一番地」とよく言うが、単なる修辞的印象が強い。 しかし庶民気分で言うと、江戸時代の日本橋はまさに文字通り、江戸の町の「一丁目一番地」であったようだ。 いや、日本橋に対するその気分は昭和時代まで続いたと言えるかも知れない。 現在の東京都中央区日本橋1丁目1番地は「日本橋」の南詰めがそこであるが、上を首都高速が走り、江戸の町を代表してきた「一丁目一番地」的な面影はもはや感じられない。 江戸時代には、いわゆる五街道(東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道)の起点がこの日本橋である。 日本橋を出発して最初の宿は、東海道が品川宿、中山道が板橋宿、甲州街道が内藤新宿、日光街道と奥州街道が千住宿で宇都宮宿に至ってそれぞれに分岐する。 当時の参勤交代などの事情を考えると、諸街道の最終結節点としての日本橋が突出して発展したのも理解できる。 しかし、家康が移封になった天正18年(1590)の頃の江戸は、太田道灌が築いた江戸城すら荒廃していた有様で、家康はまず領国経営のインフラ整備からはじめた。 大久保長安、青山忠成、伊奈忠次、長谷川長綱、彦坂元正らを関東代官として任命し、江戸開発に当たらせる。 伊奈忠次については『富嶽三十六景 深川万年橋下』でも少し触れた。 初期の頃から「道三堀」が海運と防御を兼ねて開削され、続いて掘られた平川(日本橋川)を経て江戸湊に至る運河が開通した。その平川に架けられたのが「日本橋」である。 江戸の発展は、①埋め立てによる市街地と農地の造成、②運河の開削による海運と低湿地の排水、と言う巨大な土木事業に依存した。 当然、膨大な労働力を必要としたが、徳川幕府が成立すると「千石夫」と言われる人夫役が諸大名に課せられた。これは石高千石に1人の割合で人夫を供出する制度で、江戸初期の全国石高は約2千5百万石だから、単純計算で2万5千人もの動員となる。 これが雇用と消費を生み、生産農地の拡大と海運を主とする流通がこれを支えてきたと言える。 やがて江戸の人口は18世紀の初めには100万人を超えたと言われるが、その頃に100万人を超えていたのは北京、広州、ロンドンだけで、パリが55万人、ニューヨークにいたっては6万人弱である。(イアン・モリス,歴史学者 スタンフォード大学教授の推計) この巨大都市の中心地日本橋の北詰の室町一丁目~三丁目は老舗の商店が数多く軒を連ねる江戸の目抜き通りであった。 その代表格は三井越後屋呉服店(現在の三越百貨店)である。この店の一日の売上が俗に千両と言われたが、「1日の売上高は、・・・そばに換算すると、1杯16文として17万168杯分に当たると計算しており」(江戸食文化機構 監修・著 松下幸子千葉大学名誉教授より) と大変な額であった。 当時のそば1杯の値段が現在のうどん1杯600円と同じくらいであるとして現在の売上に換算すると、何と一日の売上が1億円余りにもなる。 また、7世紀の初めの頃から、日本橋と江戸橋の間の日本橋川北岸に沿って魚河岸(日本橋魚市)があり、1935年に築地市場へ移転するまで続いた。 『富嶽三十六景 深川万年橋下』の解説で触れた深川芭蕉庵は、芭蕉門人で日本橋の魚問屋・鯉屋の主人でもある杉山杉風が鯉屋の生簀の番屋を芭蕉に提供したものである。 さてこの図の主題もやはり日本橋の賑わいであろう。 東西に流れる日本橋川(平川)を南北に跨ぐ日本橋の上を多くの人たちが行き交っている。左右には蔵が立ち並び、運河を利用した物流が盛んである様子が描かれている。 正面に見えるのは日本橋川の終点に架かる一石橋で、その向こうには江戸城の外濠川が左右に広がる。 この図は富士、江戸城と日本橋上のバランスをとるために視点を高くとり、やや俯瞰した感じで描いている。 「富士はその方向には見えない」とこの図の構成を「北斎の拵えだ」とする解説もあるが、日本橋と富士山頂を直線で結ぶと桜田門を僅かにかすめるので、富士より少し右に江戸城天守が見えることになる。 歌川広重の『江都名所日本ばし』でも日本橋と江戸城天守と富士はこの図の位置関係と同じに描かれている
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"Tsukuda Island in Musashi Province " "Hokusai Katsushika"
¥3,300
現在の「東京都中央区佃1丁目」の辺りが、この図に描かれた佃島である。当時は、隅田川河口に近い永代橋から富士を眺めれば、右側に佃島、そのすぐ左側には石川島が見えた。 この図では、右手の家が建ち並ぶ小さい方の島が佃島で、左の木立に囲まれたのが石川島。 佃島は、正保元年(1644)に摂津国佃村(現・大阪府西淀川区佃)の漁師たちが江戸に呼び寄せられ、隅田川河口の寄州を埋め立てて作った島です。その事情は徳川家康に関係するが後で触れる。 古地図『新撰増補大坂大絵図』(1691年)には神崎川の中州に「佃田村」が見られる。 度々引用するが、斎藤月岑の『江戸名所図会』には佃島の図が3図あり、白魚漁の様子や海上交通の盛んな様子が描かれている。 そのうちの『佃島 白魚網』にたくさん描かれている「四手網」漁は、水深の浅い場所で小魚などを獲る漁法で、「四手網」と言う四角形の敷網を沈めておいて、漁火などで小魚をおびき寄せて網を引き上げる。 この「四手網」は、歌麿の3枚組絵「四手網」と言う作品では、一種の観光漁船遊びと言う趣で描かれている。 初代歌川広重の『名所江戸百景 第四景 永代橋佃しま』と言う図も、永代橋の橋下から佃島の方角を眺めた夜景であるが、漁火を焚きながら白魚漁をする四手網が描かれている。 同じく初代歌川広重の『東都名所佃島入船ノ図』には、五大力船と呼ばれる廻船など大小様々な船が描かれているが、この図の左端にも「四手網」漁をする小舟が描かれている。 また、二代目歌川広重には、佃島住吉神社から対岸を眺めた『江戸名所四十八景三十 佃しま』と言う図がある。 今日でも使われている「江戸前」とは、魚影が豊富であった江戸湾の漁場のことであるが、狭義には、かって存在した「江戸前島」や「佃島」周辺を指した。 我々の知る佃煮の始まりはこの佃島にあるが、傷みの早い白魚の保存食がその始まりかも知れない。 隣の石川島は元々あった島で、江戸時代初期には「森島」または「鎧島」と呼ばれていた、と前出の『江戸名所図会』には書かれている。 3代将軍家光の時代に、旗本石川正次がこの島を拝領し、その屋敷もあったので、石川島と呼ばれるようになった。 石川正次は2代将軍秀忠の時代に御船奉行として幕府水軍を率いる役目であった。時代は下って嘉永6年(1853)に、幕府は石川島に造船所を設置し、軍艦を建造した。 これが現在のIHI(石川島播磨重工業)の前身となった。 幕府の御船奉行の家名が現代の造船会社に引き継がれていく、と言う因縁めいた話である。 この図は『富嶽三十六景』シリーズの中の藍摺り10枚のうちの1枚で、後で色摺りも出版されている。 富士は隅田川河口から南西の方角に見え、左に伸びる富士の稜線の手前には伊豆半島の付け根の山々が見える。 一番手前に見えているはずの三浦半島には標高200mそこそこの山しかない。 従って、石川島の真向こう遠くに見えるこんもりとした山は、おそらく伊豆半島の天城山(標高1405m)ではないかと思われる。 図の中央手前に大きく描かれた舟の積荷は何であろうか? 三角に高く積み上げられて、遠景の富士と相似を為している。 ベロ藍で美しく仕上げられた図は、いかにも江戸前の広々とした湾の物産が盛んな様子を、それぞれの舟の姿と林立させた帆柱で見事に表現している。 さて、江戸佃島の始まりのことである。 徳川家康が慶長8年(1603年)に江戸幕府を開いたとき、摂津国佃村の名主森孫右衛門一族7名と漁民33名を江戸に呼び寄せ、隅田川の砂州を埋め立てさせて漁村を作った。 わざわざ摂津国の漁民を呼び寄せた理由は次のようである。 天正10年(1582年)に明智光秀による「本能寺の変」が起こったとき、織田信長に招かれて上洛していた徳川家康は、摂津国堺見物を済ませ、京都へ上洛する途中の河内国飯盛山付近(現・大阪府四條畷市)で信長の横死を知ったに。 一刻も早く家康の本拠地岡崎城に戻らねばならない。 明智勢の追及を避けながら、主従僅かな人数での逃避行は実に危険であった。 そのときに摂津国佃村の漁民たちが家康の逃避行に力を貸したので、家康はその恩義に報いるために江戸に呼び寄せ、漁業的特権を与えた、と言うのである。 似た話は、家康一行の「伊賀越え」の逃避行にもあり、この時、服部半蔵を始めとする伊賀者や甲賀者が手助けをしたので、両者とも家康に召し抱えられる事になった。 お庭番、即ち伊賀・甲賀者の忍者と言うような俗説がまかり通っているようだが、お庭番とは8代将軍吉宗が新しく設けた幕府の職制で、平たく言えば、伊賀・甲賀者が隠密として使い物にならなくなったので、新しい職制を導入したのが実情らしい。 この版は、藍刷りである。
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"The Great Wave off Kanagawa/Thirty-six Views of Fuji" Hokusai Katsushika
¥3,900
富嶽三十六景の中の代表作、いや、北斎の生涯の作品中の代表作とも言えるこの図は、当然のことながら世界中の多くの人びとが知っている。 この『神奈川沖浪裏』は今でも強烈なインパクトを我々に与えるが、当時の初出版においては更に大きな反響を呼んだに違いない。 版元永寿堂西村与七の優れた企画力と北斎の円熟した表現力とが相乗して見事な富嶽三十六景シリーズは、この一枚と双璧を為すもう一枚の『凱風快晴(赤富士)』とによって以後の成功を約束されたと言ってよい。 富嶽三十六景の出版順序について様々な意見がある中で、この図がシリーズ最初の出版とする見方が固まりつつある。 この図の見どころは、見上げるばかりの大波であることに誰も異論はない。 右端のうねりが舟と共に左に向かって下降しながら底を打って反転し、今度は大波として迫り上がって、その波頭が迫り上がりの限界点を迎えて今まさに砕けんとする瞬間。 その瞬間を切り撮った静止画でありながら、この動的な一連の繋がりは決して静止していない。 この図の迫力を生み出している根源と言えるであろう。 更に、迫り上がる大波の背に盛り上がった海面を僅かに描き加えて海面の落差を表現し、大波の量感と迫力を補強している。 この図の大波の余りにもの迫力ゆえに、これは津波を描いたものだという見方すらあるが、これを少し考えてみたい。 まず津波説。 富嶽シリーズには人びとの暮らしの日常を物語り仕立てにして描いている図が多いが、その仕立て(勿論、構図の組立てをも含む)の為に、非日常的な大津波を外連味(けれんみ)たっぷりに描くような愚は北斎なら犯さないであろう。 この大波はこの辺りで時々見られるものとして北斎は描いているに違いない。 さてそれでは、「この辺り」はどこか。 舟そのもの、舟の走っている場所とその向かう先、北斎がこの図に込めた作画意図などの点からもう少し深掘りをしてみたい。 富士が右手に見えるということは、江戸に鮮魚などを搬送したあと、神奈川宿沖合の浦賀水道を南下して母港に帰る船団を描いたか、あるいは平塚辺りから江戸に鮮魚などを届けるために相模湾を南下して浦賀水道に向かう船団を描いたか。 この舟は押送船(おしおくりぶね、が訛って、おしょくりぶね、とも)と言って、周辺で取れた鮮魚を江戸に搬送する高速船である。 軍事的理由から八丁魯は禁止され七丁魯が基本だが、図の漕ぎ手は8人である。あるいは江戸後期には八丁魯が許されていたのか。 この舟は図のように3艘の船団を組んで、帆と櫓の併用で走る。 ところで、このような大波は浦賀水道ではあり得ないが、相模湾の沖合には水深1000m級の相模トラフという海底盆地が横たわり、複雑な海底地形が荒波を形成しやすく、また大津波に度々襲われた記録もある。 歌川広重の『本朝名所 相州七里ヶ浜』や『諸国名所百景 相州七里が浜』にも荒れる高波が描かれている。 さて、この図の衝撃的な構図に眼を奪われて、ともすれば私たちは作者北斎がこの図で表現しようとしたものが何であるのか、見過ごしてしまいがちである。 私はこの図を、相模湾の大波に立ち向いながら江戸に鮮魚を届ける押送船の男たちの使命感溢れる姿を描いたものだと考える。 ここにもまた北斎がシリーズで好んで描いている人びとの暮らしの姿がある。 江戸からの返り船なら何もこんな危険を冒すことはない。風波が治まるのを待てばよいし、仕事を済ました返り船が大波に立ち向うと言う図はドラマにならない。 「神奈川沖」という画題は狭義に解釈したくはない。 Many people around the world are familiar with this work, which can be said to be one of the masterpieces of Thirty-six Views of Mt. Fuji, or rather, one of the masterpieces of Hokusai's life. This painting, "Kanagawa Okinamiura," still has a strong impact on us today, but it must have caused a great sensation when it was first published.
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"Thirty-six Views of Mt.Fuji Rainstorm Beneath the Summit" "Hokusai Katsushika"
¥3,900
富嶽三十六景の中で『凱風快晴』が通称「赤富士」と呼ばれるのに対して、本作品は通称「黒富士」と呼ばれる。 白雨とはにわか雨のことをいうらしいが、この作品は一般的には、山裾はにわか雨の黒雲に覆われ、その黒雲を稲妻が切り裂いている、と評されています。 だが、私は一つの疑問を持っている。富嶽三十六景シリーズは各作品ともかなり多く残っています。『山下白雨』も然りです。そのうちの一部には、山裾が茶色から黒雲に変わる辺りに、白色を薄く刷毛で掃いたようなボカシが見られるものがあります。(本投稿はそれです) 他の摺りにもボカシほど明らかではないが、もしかしたら白色は退色したのではないかと思える痕跡があったりします。 画題の『山下白雨』を考えると、黒雲の下には白雨が降っていることを想像させるのではなくて、北斎は実際に「白雨」描いたのではないだろうか。 素直な気持ちでこの作品を見続けると、むしろ白雨のボカシが摺り込まれている方が、画題との兼ね合いでしっくりする。 あるいは強引な仮説かなと思わないでもないが、該当箇所の顔料の科学的分析で答えは出るのではないだろか。
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"Thirty-six views of Mt. Fuji/South Wind, Clear Sky" Hokusai Katsusika"
¥3,900
快晴の藍色の空に棚引く白い鰯雲、その空を凱風(南風)が吹き渡っていく。雄大な富士の姿は泰然として揺るがない。 富士の圧倒的な存在感を表したものとしてこれ以上のものはない。 夏の終りから初秋にかけての早朝、朝焼けを浴びて富士が赤く染まることがあるらしく、その情景を描いたものと言われる。通称「赤富士」とも。 異説として、単に意匠としてインパクトを持たせるために赤色にした、と言う説もある。 北斎には既成の概念に囚われない大胆さと同時に、その大胆さの元になる「Fact」がある。 北斎の写実主義とはそう言うものであるように思う。従って「単に意匠として」という説に私は与(くみ)しない。 また、この富士はどこからの眺めか、と言う議論も盛んである。 シリーズの中で、空を背景として富士の山体だけを描いているのはこの図のみで、構図がほぼ同一と言ってよい『山下白雨』には遠景の山も描かれている。 北斎は富嶽シリーズにかける情熱をこの図に象徴的に注いだのではないか。画面から夾雑物の一切を捨象して「The Fuji」を描いたのではないか。 だから「どこからの眺めか」の議論はさほど意味を持たない。 富嶽シリーズは出版順が定かではないが、この図が最初に出版され、シリーズ大成功の鏑矢となったのではないか。 ともあれ、富嶽シリーズ全46図の中で、『富嶽三十六景 神奈川沖浪裏』と双璧をなす代表作と言える。 全46図が北斎72歳の作品群である事を思えば、その才能は言うに及ばず、彼のエネルギーは常人の及ぶところではない。 シリーズ題からは全部で36図ではないのか?と疑問を持つ方も多い。 実は当初の企画はシリーズ題通りに36図の予定であったが、版元の永寿堂西村屋与八は売行きがよかったので10図を追加出版し、全46図となったのである。 追加出版の10図には少し手抜きがある。 当初出版の36図は主版(おもはん、輪郭線の版)の摺りに高価なベロ藍を使った。 ベロ藍はプルシャンブルーとも言い、当時プロシア(ドイツ)で開発された顔料が日本に流入し、その発色の良さから多くの絵師が使った。 北斎ブルーとも呼ばれる顔料だが、富嶽三十六景で使用されてから評判になったというのは俗説、渓齊英泉が先に使ったようだ。 しかし、追加出版の10図は主版に印刷原価の安い墨を使っており、輪郭線が墨色なので誰にでも判別できる。 通称では当初出版36図を「表富士」と言い、追加出版10図を「裏富士」と言う。 The wind blow from the south in early autumn. The morning glow changes the color of Mt. Fuji to the red. There is two interpretations about the red color of this pic. One is he just drew the impression of that fact, and the other is he tried to express an impact as only design. But I think, actually he's an adventurous realist, but he didn't try the unfactual adventure on drawing. Among these all 46 pics in the “Thirty-six views of Mt. Fuji” series, this pic and “The Great Wave off Kanagawa” could be two masterpieces. Considering that this series is the works at 72-years old, he had not only the great talent, but also the energy much more than other painters.
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"Thirty-six views of Mt. Fuji/Mount Fuji reflects in Lake Kawaguchi,seen from the Misaka Pass in Kai Province" "Hokusai Katsushika"
¥3,900
北斎の大胆な構図が映る『甲州三坂水面』は通称「逆さ富士」と呼ばれている。この作品の構図は前回投稿の『富嶽三十六景 青山円座松』で触れた富士の稜線で平行四辺形を構成する構図の取り方と全く同じです。 河口湖の湖面に映る「逆さ富士」には冠雪が残るが、実際に佇む富士は夏山の姿である。そして、実際湖面に映った「逆さ富士」であればこのように左に偏って映ることは光学の原理上あり得ず、もっと右に寄って描かれるべきであろう。 北斎ならではの構図の組立の大胆さと言える。ともあれ、その違和感が構図の妙となって、この絵の面白さを際立たせている。 鏡のように澄み渡る湖面の静謐さに遠慮して、時間までが時を刻む音を停止させているようである。 この不思議な静謐について、私は北斎の精神世界を感じる。 河口湖畔には冨士御室浅間神社という古い神社があり、この神社の祭神は木花咲耶姫(このはなさくやひめ)というとても美しい女神であるらしい。 「さくら」語源となったともいわれている。日本の初代天皇・神武天皇の祖母に当たる。 この古代神話と北斎の作画モチーフは無関係なのだろうか。
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"Thirty-six views of Mt. Fuji/Inume Pass in Koshu Province " Hokusai Katsusika
¥3,900
犬目宿(いぬめじゅく)という少し変わった名前の宿場町は、日本橋を出発して内藤新宿から甲州街道を進み、武藏国、相模国と通り抜け、甲斐に入国してから三つの宿場町を過ぎたところにあった。 日本橋から数えて21番目の、犬目峠に近い急峻な山間の小さな宿場町である。 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いのあと、徳川家康は全国の街道整備に着手するが、まず最初は慶長6年(1601)に東海道に宿駅伝馬制度を敷いた。 宿駅伝馬制度とは、街道に適当な間隔で宿場と乗継ぎ用の代馬を整備し、交通・通信のインフラを制度として確立したものである。 甲州街道の犬目宿辺りは整備が遅れ、正徳3年(1713)になって一村全体を宿場町とした。 宿場町としての規模は小さく、文化11年(1814)に成立した地誌『甲斐国志』によれば、犬目村は石高81石、戸数61戸、人口293人、馬20頭と、山間の物成(ものなり)の少ない寒村であった。 例えば遠山金四郎・遠山家の知行地が500石であったから、その格の低い旗本の知行の6分の1ほどの米の取高しかない貧しい村であったことが判る。 因みに、犬目村の石高81石から租税を引いて村民1人当たりの分量に換算すると、炊いた白米で、1日にお茶碗に軽く1杯程度になる。 勿論、一村挙げて宿駅伝馬を担ったのであるから租税の減免や宿賃の収入などがあっただろうが、生きていくには余りにもの貧しさである。 この貧しさが英雄・犬目兵助を生み出すこととなった。 当時、天保年間の初め頃から凶作が続いて米価が高騰し、ついには天保7年(1836)8月、甲州騒動と呼ばれる百姓一揆が勃発した。 犬目兵助(40才)は下和田村次左衛門(73才)と共に、郡内42ヶ村の困窮農民が決起したこの百姓一揆を指導した。 次左衛門は捕らえて獄死したが、兵助は磔刑の宣告を受けるも、北陸、近畿、中国、四国など全国各地を放浪して逃げ延び、上総木更津に身を隠した後、晩年になって犬目村に戻り71才で亡くなっている。 兵助のこの物語にはどうしても触れておきたい事がある。 一揆は用意周到に計画され、8月20日に郡内42ヶ村の農民が白野宿(大月市)に集結して決起した。 兵助には女房子供があったが、罪が妻子に及ばないように前もって8月15日に離縁状を認めている。 妻の「里ん(りん)」は39才、娘の「たき」は生後6ヶ月。 この妻子を貧しい村に残して一揆に身を投じた兵助の心情はいかばかりであったろうか。 今日の薄汚い心根の政治家や官僚たちに、犬目には兵助の墓があるから詣でてこい、と言いたい気分になる。 この離縁状は逃亡日記と共に兵助の生家である犬目宿『水田屋』に今も残されている。 立派な筆跡であり、学問もあって村の指導的立場に立てる人物であった事がうかがえる。 もう一つ話がある。 兵助は晩年に犬目村に戻って暮らしたが、恩赦という制度があって晴れて無罪放免になった訳ではない。 捕らえられれば磔刑に処せられる。のみならず匿った者も同罪であったろう。 村人たちは命を賭してこの村の英雄を匿ったのである。 この貧しい寒村には、かくの如く人間性豊かな物語が村の宝として今に語り継がれているのである。 この時代に生きた人びとの美しい精神と強固な絆を示して余りある。 兵助や兵助を匿った村人たちのような自己犠牲の精神は、もはやこの国には滅びてしまったのだろうか。 長年、アフガニスタンに身を捧げ、2019年に殺害された医師中村哲さんのことが思い起こされる。 彼もまた、貧しいアフガンの農民たちの英雄である。 さて、犬目というやや変わった名前について考えてみたい。 「犬目」の由来については地元の郷土史研究家たちも知らないらしい。 皓星社の隠語大辞典によれば、鎌倉中期の建長4年(1252)に成立した『十訓抄』(じっきんしょう)という教訓説話集には、大納言源俊明は何事にも涙を流さないほど非情なので「犬目ノ少将」と言われた、という記述があるらしい。 私は原典を調べてないが、犬目という言葉が「冷酷で血も涙もない」というような意味で使われているようだ。 犬目峠は急峻な山間を通る難関で、途中には「座頭ころがし」という難所がある。 目の不自由な旅人がこの難所にさしかかって転落死した言い伝えがあり、昔は目の不自由な方を「座頭」と言ったのでここをそう呼ぶようになったようだ。 「座頭ころがし」を過ぎると犬目宿に入るが、険しい犬目峠を経て「座頭ころがし」に至る道は飢饉が起これば盗賊が出没するような場所。 この貧しい寒村をそこまで苦しめなくてもよいではないかと、悲痛な村人の声が聞こえてくるようだ。 村人たちはこの土地の非情冷酷さを恨みながら、『十訓抄』から「犬目」を援用してここをそのように呼ぶようになったのではないだろうか。
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"Thirty-six Views of Mt. Fuji/The Lake of Hakone in Sagami Province" "Hokusai Katsushika"
¥3,300
富嶽シリーズの中で最もデフォルメされた風景画ではないだろうか。 この図の雰囲気に近い作品に『富嶽三十六景 甲州三坂水面』があるが、その図には幾つかのトリック(詳しくはこの図のコメントを参照)が使われているとは言え、写実の姿勢からは逸脱してない。 この図をじっと見続けていると、何かしらメルヘンチックな物語の入口に立っているような気分になってくる。 丸められた山の姿、杉林の誇張と単純化、大和絵風に定型化されて棚引く霧、人っ子ひとり描かない静謐。 北斎はこのデフォルメをどんな意図で仕掛けたのであろうか。 いずれにしても、北斎の富嶽三十六景シリーズは「人びとの暮らしの姿」を描くことにその主題があるのではないか、と思えるほどに様々な人びとを登場させるが、人の姿が見られない図は珍しい。 「箱根湖水」とは実は芦ノ湖のことで、当時はほとんど固有名詞的に使われていたようだ。 秋里籬島が寛政9年(1797)に『東海道名所図会』(6巻6冊)と言う地誌を刊行した。 挿絵を担当したのが丸山応挙、北尾政美など30人の絵師と言うから、当時としてはかなりの豪華版ではなかったろうか。 その『東海道名所図会』の「箱根湖水」の項に「一名葦の湖といふ 富士八湖の其一也 箱根の山嶺にあり 長さ三里許(ばかり) 巾一里余」とある。 歌川広重の『東海道五十三次』にも『箱根 湖水図』の名があり、二子山の山裾の坂道を登る大名行列が描かれている。 坂道は東海道でそのまま進むと小田原に至る。 左手の三国山の向こうに冠雪を白く際立たせた富士を置き、右手にはこの図を決定的に印象付けて、極端にデフォルメされた駒ヶ岳。 標高1300m余りの山に対して杉木立が何と大きいことか。 駒ヶ岳の山裾の手前には箱根権現(箱根神社)が杉林の中に佇んでいる。 屋根の形が寺社の典型的な「入母屋造り」だから、箱根権現の社殿であることが解る。 そして権現の裏に二こぶに描かれた低い山は二子山ではなかろうか。 右端に見られる屋根の一群は当時の箱根の中心地で関所のあった、東海道五十三次10番目の箱根宿であろう。 ともあれ、北斎が箱根芦ノ湖の図をこのように仕上げた理由は何であるのか。 箱根権現は非常に歴史が古く、由緒のある神社であったので、尊崇の気持ちを込めて独特の雰囲気のある図に仕上げたのではなかろうか。 箱根権現にまつわるエピソードについて少し触れたい。 箱根権現は「権現」という神号概念が成立する以前から、何らかの土俗的信仰対象の場所だったと思われる。 現在に続く祭祀には道教の祭式の名残が見られると言うから、道教が日本に流入した4世紀頃にはすでに信仰対象が具体的に存在したのではないか。 土俗的山岳信仰が「修験道」という独自の宗教の形になる頃には、この場所は既に信仰の拠点となっていたと考えていい。 『筥根山縁起并序』という古文書を現在の箱根神社が所蔵している。 箱根山開山縁起を記した巻物で、鎌倉時代の建久二年(1191)に作られたものだが、原本そのものはなく、室町時代の写本である。 この巻物については、立教大学日本文学会の大久保あづみ氏による、--『筥根山縁起并序』を中心に--と言う研究論文もある。 これらによると、箱根権現の実体が年代的に明確になるのは、天平宝字元年(757)に万巻上人(まんがん)が芦ノ湖畔に里宮(さとみや~山裾の村里にある社殿のこと)を建立した、と言うあたりからである。 万巻上人は箱根山第四代で、それより三代前に聖占仙人という人物が駒ヶ岳山頂に神仙宮を開いた、と言う辺りの話になってくると、もはや山岳信仰時代の神話に近い。 この権現は鎌倉時代以降の武将たちが崇拝し、たくさんの宝物が奉納されていたが、豊臣秀吉が北条氏政一族を滅ばした、天正18年(1590年)の小田原攻めで箱根権現社は消失し、宝物は十分の一になったらしい。 現在の箱根神社には、源義経が奉納したと言われる太刀「薄緑丸」と、木曽義仲ゆかりの大太刀「微塵丸」が残っている。 箱根権現と北条早雲との関わりも深いが、詳しくは司馬遼太郎の早雲一代記『箱根の坂』を一読されたい。 早雲が大森藤頼の居城小田原城を攻めたとき、鹿狩りと称して箱根山中に兵を埋伏した。 そして牛の角に松明を結わえて、箱根山中から小田原へと牛の大群を駆け下らせて軍勢に偽装したのは有名な話。 その時の箱根権現別当は、大森藤頼の弟説がある大森海実で、その後を早雲の四男北条幻庵が引き継ぐ。 本題と関係ないが、早雲の妹(司馬は恋人に見立てている)が駿府の今川氏に嫁いで北側殿と呼ばれ、その孫が信長に桶狭間で討ち取られた今川義元である。 最後にまた姑のあら探しを一つ。この画題もまた彫師が「相州」を「相列」と間違い彫り。
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"Thirty-six views of Mt. Fuji/Tama River in Musashi Province " "hokusai Katsushika"
¥3,900
玉川とは多摩川のことで、この作品は調布にあった「六郷の渡し」あたりからの眺めと言われています。 川面の表現が秀逸で、奥から手前に向かって紺のグラデーションによる濃淡をつけ、川面の青の色が尽きて白色になったところから、絵の具をつけないで摺るいわゆる「空摺り」で川波が表現されている。 「空摺り」とは、色を乗せない版木に紙を当て、強く摺って紙に凸凹をつける技法で、今日で言うエンボス加工と同じです。 既に江戸時代にこのような印刷技法が使われていたことは驚きです。 グラデーションの技法も含めて、浮世絵の仕上がりには摺師の技(わざ)が重要な役割を占め、 浮世絵とは、絵師、彫師、摺師の三位一体の作品とも言われる所以でありましょう。
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"Thirty-six views of Mt. Fuji/Sunset across the Ryogoku bridge from the bank of the Sumida River at Onmayagashi" "Hokusai Katsusika"
¥3,900
~両国橋の架橋は1659年(万治2年)若しくは1661年(寛文元年)と考えられているから、「富嶽三十六景」の初版が作られ初めた1830年(天保元年)頃より170年も昔です。 この橋は隅田川に架橋されていた千住大橋に続く2番目の橋で、名称は当初「大橋」と呼ばれていたようです。長さ94間(約170m)、幅4間(約7m)だったらしいから、木造橋でこれだけの距離を架橋したのは大変な技術と言うべきでしょう。 1693年(元禄6年)に新たな「新大橋」が作られると、川を挟んで武蔵国(むさしのくに)と下総国(しもうさのくに)との二つの国にまたがる橋であることから、通称「両国橋」と呼ばれるようになりました。 御厩川岸(おんまやがし)と言うのは幕府の馬小屋があったここら辺りにあったからで、「厩」はこの一文字で「うまや」と読みます。その御厩川岸と両国側を結ぶ「御厩の渡し」がここにあったのです。 図では両国橋の向こうに富士山が見えるので、この渡し舟は両国から蔵前(御厩川岸)へ渡る舟と言うことになります。 ここから見える富士山は南西の方角になり、渡し船の舳先は夕日の沈むほぼ西方向を向いており、夕日は画面の右端より更に右の画面の外に沈むことなる。 これもまた北斎の構図の意図が見られます。この図に夕陽を描けば興ざめな図になるだけでなく、当時の顔料では色彩的コントラストが非常に難しくなったであろうと思われる。 西の方角を画面の外にすることで、夕日を描くことなく逆光の中に富士や対岸の町並みのシルエットを弱く浮かび上がらせている。シルエットの藍色はまさに暮れなずむ刻限の影が赤の反対色の青っぽく見える瞬間を表している。 その美しい暮れの景色に目もくれず舳先(へさき)で居眠る男がいる。行商に疲れたのであろうか。また雑多な小道具(大きな背負い箱、天秤棒、按摩の杖、鳥刺しの竿など)を持つ船客たちにも、それぞれの一日の終りの雰囲気が漂っている。 青い川波のうねりの中を船頭が力強く櫓を漕いでいる。彼にとってもまたこれが今日最後の渡しなのであろうか、見慣れた富士を見ながら感慨に耽っているような背中である。
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"Thirty-six views of Mt. Fuji/Ushibori in Hitachi Province" "Hokusai Katsusika"
¥3,300
常州とは常陸国(ひたちのくに)の事で、常州牛堀とは現在の茨城県潮来市牛堀の事です。 当時、この辺りは霞ヶ浦の出入口として水上交通の要衝であり、苫舟と呼ばれる船底の浅い舟がたくさん行き来していました。 苫舟とは苫(茅)で屋根を葺いた小屋を持つ舟のことで、この舟の船頭の家族は船上生活をする場合が多かったのです。 これは、その船頭一家の一日が始まる早朝の情景を描いた作品です。 今日ではほとんどみられなくなった羽釜(米を炊く釜)で米をとぎ、とぎ汁を捨てる。この朝食の準備の光景は昭和の前半まで(つまり羽釜でご飯を炊かなくなるまで)はどこの家庭にも見られ、一日の始まりを象徴的に表すものてあったと言えます。 米の入った釜ごと水中に落としたら大変なので、非力な女房には(我が家は違いますが・・・笑)任せられない、と亭主の船頭が米をといでいる。あの時代の人々が朝早くから時間を惜しんで働く、健全な暮らしの姿がこの絵には感じられます。 米のとぎ汁を流す僅かな水音に驚いてつがいの白鷺が飛び立つ。船頭の家族の一日の始まりと同じくして白鷺にも一日が始まる。その始まりの合図は米のとぎ汁を捨てる小さな水音なのである。 何と静かで、珍しくもない日常的な朝がこれほどドラマティックに描かれていることでしょうか。藍摺りの青色が過不足無く早朝の静けさを表して見事ですね。 この絵も構図に触れざるを得ません。右下から左上の対角に向けて、絵のど真ん中に苫舟を斜めに据えている。 そして手前に描かれた湖岸若しくは小山とそこに生える灌木は、遠近法から考えるともう少し大きく描かれるのが自然なバランスではないかと思えるのだが、北斎は作為的に小さくしたのではないか。 その作為によって苫舟が絵から大きくせり出して来て、まさに主題たる「常習牛堀」の船上生活者の静かな朝の始まりを語っているように感じます。
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"Thirty-six views of Mt. Fuji/Senju in the Musashi Province" "Hokusai Katsusika"
¥3,300
千住宿は、東海道品川宿、中山道板橋宿、甲州街道内藤新宿と並んで江戸四宿のひとつで、江戸日本橋を起点とする日光街道と奥州街道の一番目の宿場町でした。 以前に投稿した『富嶽三十六景 隅田川関屋の里』の関屋の里は千住宿に属していた場所です。 千住宿は岡場所と言われる遊郭もあったほど栄えた宿場でした。岡場所とは幕府公認の遊廓である吉原に対して、非公認の遊郭のことです。 このシリーズの中に、『富嶽三十六景 従千住花街眺望ノ不二(せんじゅはなまちよりちょうぼうのふじ)』と言う図があります。 これは花街すなわちここの遊郭から眺めた富士の図です。 千住宿の周辺一帯は農村地帯なので「やっちゃ場」と呼ばれる青物市場があり、神田青物市場と駒込青物市場とを合わせて、江戸三大やっちゃ場と称されたほどです。 特産の農産物として「千住ねぎ」は、当時よりずいぶん品種改良されていますが、今でも有名ですね。 この図の馬の背に積まれている青物はこの特産「千住ねぎ」だ、と言う解説もあるが少し疑問もある。 当時は、白い部分が長い「根深ネギ」までに品種改良が進んでなく、白い部分が短かかった。 とは言え、全く白い部分が全く表現されてないのは少し変である。 しかも、馬の背に積まれているのがネギにしては長すぎる。 従って、馬の背に積まれているのは、馬の飼葉か堆肥用の青草ではないかと思われる。 ただ、前方一面に広がる青々とした畑は特産「千住ねぎ」畑で、馬の背にはその「千住ねぎ」が積まれている・・・・と、この図を見たいところではありますが。 描かれている木製の構造物は堰枠(せきわく)と言い、隅田川の水を用水路に逆流させないための水門です。 この堰枠によって、富嶽シリーズには珍しい幾何学的面白さが生まれている。 加えて、北斎はこの図でも構図的な細工をしている。農夫のひく手綱に何かがぶら下がって、その手綱が遠方の富士と対称の逆三角形を描いている。 さて、手綱にぶら下がっているものは何なのか? 様々な解説では「草鞋」説と「子亀」説に分かれます。 「草鞋」説を採るなら、それは、馬が使う替え草鞋で、それが必要なほど遠方からの帰り道、と言う解説になります。 しかし、千住一帯は農村地帯なので、馬の背に積まれているのが「千住ねぎ」であれ、飼葉であれ、それを収穫するのに、さほど遠方まで出かける必要はない。 また、手綱を逆三角に引っ張るだけの重さなら手綱に結わえ付けることはないでしょう。 当時は馬の蹄の保護に馬用草鞋があり、歌川広重の名所江戸百景「四ツ谷内藤新宿」には、草鞋を履かせた馬のクローズアップが描かれている。 「子亀」説を採ると、農夫が子供の土産に子亀を・・・と言う解説になります。 素直に図を見ると、子亀が手綱に食らいついており、子亀は紐を引きずっているように見えます。 手綱のピーンと張った緊張感はこちらの説の方がしっくりする。 ただ、子供の土産としての囚われの身にしては、逃げ出さずに手綱に食らい付いたのは、子亀の意地か(笑) 説が分かれている理由は、せいぜいA3サイズの図に描かれた「草鞋若しくは子亀」が小さすぎて判然としないからです。 さて、富嶽シリーズの作品には物語性を含ませた作品が多く、中には登場人物の会話すら聞こえてきそうな図があったりします。 その観点からこの図を見ると、手綱にぶら下がるのが草鞋であるとすると、この図の面白みが半減する。 図の物語性を考えてみると、私は子亀説に軍配を上げたい。 そして、北斎のいたずら心が生み出した、富嶽三十六景シリーズの中で最もユーモアのある作品と見たい。 以下はこの図に妄想する私の作り事です。 農夫は釣人たちの側を通りかかる。 農夫~いやぁ、今日の富士はとりわけ見事ですなぁ。 釣人~ええ、ホントに。 釣りに夢中で気付かなんだ。 亀を釣って糸が切れたんで、もう釣りはヤメです。 こうやってゆっくりと富士を眺めるのもなかなかのもんですな。 人間どもが風雅な会話で憩っている隣で、馬と子亀が諍っている。 子亀~このやろう!オレを陸(おか)に引っ張り上げたのは誰だっ! 昼寝の邪魔しやがって! 手綱を噛み千切ってやる! 馬 ~オレ達は関係ねぇじゃねぇか! てぇめぇが口いやしくて、妙な餌に食らいついたからじゃねぇのか! 蹴ったろか、こいつ! こんな会話が聞こえてきますね。 馬の右足は今まさにサッカーボールのように子亀を蹴ろうとしている。 子亀は健気にも農夫の手綱に食らいついて放さない。 躰は食いちぎった釣糸をまだ引きずっている。 ほら、たてがみで見えないが、馬の目は子亀を睨みつけていますよね。
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"Thirty-six Views of Mt. Fuji/Barrier Town on the Sumida River " Hokusai Katsushika
¥3,300
北斎の富嶽シリーズは概して静的な作品が多い中で、この「隅田川関屋の里」は最も動きのある作品と言えるでしょう。 関屋の里は千住宿にあった場所で、その地名は現在でも千住関屋町や京成本線京成関屋駅にその名が残っています。関屋とは関所の番人が詰める小屋のことです。 千住宿は、江戸日本橋を起点とする日光道中と奥州道中(現在は街道、当時はこう表現され「経路」というようなニュアンスで使われていたようです)の最初の宿場で、 交通・物流の要衝として大変な賑わいを見せ、遊郭すらあったようです。 東海道品川宿、中山道板橋宿、甲州街道内藤新宿と並んで、千住宿は江戸四宿のひとつに数えられました。 疾走する三騎の馬と湿地を曲がりくねって伸びる街道が見事な躍動感を与えていますが、よく見ると騎乗するのは刀を腰に差した武士です。 私はこの図を初めて見たとき、着物の柄といい、着物をなびかせる姿といい、小粋な感じがして武士とは思わなかった。 遠景の富士は赤く染まっているので、領国に大事を知らせる早朝の出立なのでしょうか。 右端に高札場(こうさつば、法度や掟書を板書で掲示する場所)が見える事から、宿場を出てすぐの街道をまさに今、駆けだしたところでしょう。 遠くに見える草地は、屋根を葺(ふ)く茅を収穫したり、馬の餌である秣(まぐさ)を刈り取ったりする「茅場」です。 この辺りは、元和2(1616)年に新田開発され、以後も開発が続いたようですが、まだまだ、茅場としてしか使いようのない低湿地が残っていたようです。 日本橋茅場町もまた「茅場」に由来する地名です。
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"Thirty-six Views of Mt. Fuji/Tea house at Koishikawa, The morning after a snowfall" "Hokusai Katsushika"
¥3,300
この図は富嶽三十六景シリーズの中で唯一の雪景色を描いた作品です。 この画題もまた彫師が本来は「旦(あした)」の字を「且(か)つ」の字に彫り間違えている。正しい画題の漢字は『礫川雪ノ旦』です。 東京の小石川(文京区)はもともとは礫川(こいしかわ)と表記されていた。 古い時代のこの辺りは江戸川が蛇行して流れ、一帯に河原の礫(れき、小石の意味)の多い場所であったところから来た地名と思われます。 また、高台の多い場所で、中でも文京区春日一丁目の牛天神北野神社の高台(と言うより当時は小山に近い)の近くを神田上水が流れ、その向こうには江戸川や小石川後楽園(水戸徳川家初代藩主・徳川頼房が築いた庭園で、黄門様・水戸光圀が仕上げた)が眺められた。 さらに遙か南西の方角には富士山の優雅な姿が見られ、牛天神はいわば景勝の高台であったようです。 北斎が富嶽三十六景を仕上げた頃とほぼ同時期に、斎藤月岑と言う人物が江戸の地誌『江戸名所図会』を7巻20冊で刊行している(国立国会図書館デジタルコレクションで全冊がご覧になれます)。 その「巻之四第十二冊」の中の「牛天神社・牛石・諏訪明神社」には、牛天神の高台の図が描かれています(この図は後でアップします)。 この図をよく見ると「楊弓(弓の射的)」や「茶や」の注釈のついた建物があり、この場所が遊興の場所でもあったことが分かります。 また、この図に見られる注釈「牛石」は、今でも牛天神北野神社の境内に「ねがい牛」として祀られています。 「牛石」のあった、北野神社北側の坂道は「牛坂」の名の史跡として残っています。 『礫川雪ノ且』の図は牛天神にあった茶屋を描いているものと思われる。 この版の初摺りは雪晴れの青々とした空で仕上げられ、後摺りでは一面の雪景色に映える朝焼けの空で仕上げられています。 本図は後摺りの版です。 一部には後摺りを「富士の背景が夕日に変えられている」と解説するものもあるが、それでは画題の意である「雪の朝」を無視する事になってしまう。 とは言え、富士山は茶屋から南西の方角にあたるので、その南西の空が朝焼けすると言うのもやや難があります。が、興ざめになるのでこの考証は止めにしましょう。 見渡す限りの銀世界。江戸川の彼方には雪衣を纏った優美な富士が見える。 人びとは早朝より茶屋に来て、雪見酒を楽しんでいるのであろうか。あるいは当時、茶屋で宵越しの酒を楽しむようなことが出来たのであろうか。 茶色の着物を着た女中のひとりは膳部を捧げ持ち、もう一人の女中は、想像するだに晴れ晴れとした雪景色の空を指さしている。 指さす空には三羽の鳥が舞っている。この舞い方は鳶に違いないが、その特徴的な舞い方によって朝焼けの空は広々と拡げられている。 歓びの空気が満ちあふれている様に感じられる作品である。
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" Thirty-six Views of Mt. Fuji/Lower Meguro " Hokusai Katsushika
¥3,300
鍬を担いだ農夫が山道を登りかけているこの図を見れば、今日の江戸の人は「この絵はいったい何だ、ここは下目黒だぜ。」と言いたくなるに違いない。 目黒を題材にした浮世絵は意外に多く、これらに描かれた当時の目黒の風景を見ると北斎のこの図にも納得がいく。 中でも歌川広重は、『名所江戸百景』で「目黒新富士」、「目黒元不二」、「目黒太鼓橋夕日の岡」、「目黒千代か池」、「目黒爺々が茶屋」の5作を、『富士三十六景』で「東都目黒夕日か岡」、「目黒行人坂富士」の2作を、『『江戸名勝図会』で「駒場野」を、『江戸名所』で「目黒不動」を、さらには、三代目豊国と二代目広重との合作の『江戸自慢三十六興』で「目黒不動餅花」、「目黒行人坂富士」の2作を、と多作である。 また、『江戸名所図会 三巻』には「目黒不動堂」の図や、「目黒飴」というこの地の名物の土産物店の図が載っている。 これらの図から分かることは、当時の目黒には鷹狩りが出来るほどの広大な荒れ野があり、起伏の多い農村地帯でもあったこと、新富士や元富士と呼ばれる富士講の信者が築いた富士塚があったこと、などである。 また、天台宗泰叡山護國院瀧泉寺、通称目黒不動尊という名所古刹でも地名が知られていたようである。 この目黒不動尊は大同3年 (808年)に天台座主第三祖の慈覚大師圓仁が開山した関東最古の不動霊場であり、今日も下目黒にあり、名刹を誇っている。 広重の描いた人工の「新富士」も「元富士も」かなりの高さで、そこから富士が眺望できたらしい。 目黒一帯は農村地帯だったが、下目黒村と中目黒村には茶店、料理屋などがあり、江戸の人びとが楽しんだ観光名所・目黒不動の門前町でもあった だが、下目黒をもって江戸っ子を気負う方たちに少し難癖をつけたい(笑)ので、話を脱線させる。 江戸時代の下目黒が江戸なのかどうか、と言うことである。 いやいや江戸は江戸なのは当たり前だが、当時の江戸人が感覚的に江戸だと思っていたのか、についてである。 江戸時代後期に「朱引(しゅびき)」と言う言葉があった。 端的に言えば「朱引内」は江戸のうちに入り、「朱引外」は「そこはもう江戸じゃねぇぞ」と言う、当時の江戸人たちの気分を表しただけでなく、実際の行政的区分を示す言葉でもあった。 ことの起こりは、江戸幕府が文政元年(1818)に江戸の範囲を定めて、地図上に朱色線(朱引)を引いたことに始まる。 18世紀初頭に江戸の人口は100万人を突破し、その後も江戸の街は広がり続け、1800年代の初め頃にはどこからどこまでが江戸なのか、はっきりしなくなっていた。 そこで幕府は「旧江戸朱引内図」を作成し、その地図上に朱色線(朱引)で囲んだ区域を江戸の範囲として示した。 「朱引内(しゅびきうち)」は「大江戸」とも「御府内」とも呼ばれ、この範囲が「江戸」なのである。 ところが、目黒の地域では下目黒村と中目黒村は「朱引外(しゅびきそと)」に区分されたのである。 その理由は諸説あるがややこしいので省く。 いずれにしろ下目黒は「朱引内」の江戸ではないのである。 「朱引内」については、司馬遼太郎さんの『街道を行く』シリーズの第37巻「本郷界隈」の中の「見返坂」の項で、夏目漱石の事に触れ、彼の時代の明治後期でもまだ現役の言葉だったと書いている。 ともあれ、巨大都市江戸の住民が「江戸っ子」と自らを誇る気分は何も日本だけでなく、パリにも「パリジェンヌ」、「パリジャン」という言い方があるように、田舎を小馬鹿にするような気分は民族を問わない人間の通癖ではなかろうか。 脱線の度が過ぎた。 さて、目黒のお狩場は今日の東大教養学部の駒場キャンパスとなるが、そのお狩場に絡んだ落語「目黒のさんま」と言うのがある。 鷹狩りを楽しんだ将軍(吉宗という説があるが定かではない)が、実在した「目黒爺々が茶屋」に度々立ち寄った事をもとにして創られた落語である。 広重の作品にも同名の画題『名所江戸百景 目黒爺々が茶屋』があるのは既に述べた。 史料としても、「目黒爺々が茶屋」の子孫の島村家に、元文3年(1738)年4月13日の鷹狩の時に吉宗が訪れた記録が残る(御成之節記録覚)
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"Thirty-six views of Mt. Fuji/Cushion Pine at Aoyama" Hokusai Katsushika
¥3,300
当時の原宿村の禅宗臨済派古碧山龍厳寺には「円座松」という松の植栽があり、、江戸三十六名松の一つのひとつに数えられたという。 今風に言えば江戸の観光名所であったようです。 「円座」とは、藁や菅(すげ、かや)などで、渦巻き状に円形に編んだ座布団代わりの敷物のこと。 古い言い方では藁蓋(わろうだ、わらふたの訛り)とも言うことから、円座を「わろうだ」とも言う。 この禅寺の松の姿が、その「円座」に似た如く、枝を四方に伸ばして整えられていたことからこの名が付けられた。 江戸期の地誌『新編武蔵風土記稿』の龍巌寺の縁起によれば、 「圓座松。砌下にあり、囲み四尺許、根上一尺許を隔て四方へ蟠延す、大さ東西七間餘、南北六間半、其状圓坐を敷たる如くなれは此名あり、初栽せしより凡九十年に及ふと云ふ」とある。 当時の樹齢がおよそ九十年と言うから、植えられたのは享保年間(1716~1735年)の頃ではなかろうか。 また、『江戸名所図会』には「竜岩寺庭中」の図が描かれており、樹形がまさに「円座」の形をなしている。 ほぼ七間四方の大きさだから直径13mほどの円形であった事がわかる。 残念ながら、円座松は枯れてしまったが、その寺は今日でも存在している。神宮球場隣の国学院高校の裏に、静かに佇んでいる禅寺龍巌寺がそれだ。 この作品には北斎の好む構図の企みがある。富士の稜線が左になだらかに伸び、これに平行して円座松が枝を左下方に伸ばしている。 そして、富士の右の稜線と屋根のラインで囲って平行四辺形を作り、その中に霞み若しくは雲の逆さ富士がある。 この構図はいわゆる「逆さ富士」として良く知られている『富嶽三十六景 甲州三坂水面』とほぼ同じ構図になっている。 『江戸名所図会』に描かれた円座松は扁平な樹形であるが、この図では樹幹の部分を高く描いて、平行四辺形の構図を創っている。 人びとは円座松を肴に酒を酌み交わしている。よく見ると円座松の左の枝裾の下には庭職人の足と箒が描かれている。 北斎の芸の細かいところである。 The Enza pine tree was famous as one of the best trees in Edo, and was a tourist attraction in Edo. Enza is a circular woven rug made of straw, etc., used as a cushion. This tree spans thirteen meters from the roots to the branches, and the shape of the tree is exactly that of an "Enza". This is a pine tree in the precincts of Ryuganji Temple, which was located in Harajuku Village at that time. Unfortunately, the Enza pine tree has died, but the temple still exists. The Zen temple that stands quietly behind Kokugakuin High School next to Jingu Stadium is the same one." In this work, Hokusai's favorite compositional scheme is evident. The ridge of Fuji extends gently to the left, and parallel to this, the Enza pine tree extends its branches to the left. The right ridge of Fuji and the roof line form a parallelogram, and within the parallelogram is an upside-down Fuji with haze or clouds. This composition is almost the same as that of "Thirty-six views of Mt. Fuji/Mount Fuji reflects in Lake Kawaguchi, seen from the Misaka Pass in Kai Province" which is well known as the so-called "upside-down Fuji.
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"Thirty-six Views of Mt. Fuji/Under Mannen Bridge at Fukagawa" "Hokusai Katsushika"
¥3,300
万年橋は小名木川(おなぎ)が隅田川に合流する河口に今も架かっている。 北斎が描いた頃の木造の万年橋がいつ頃架橋されたのか、分かってない。 延宝8年(1680年)の地図『江戸方角安見圖鑑 2巻』では「元番屋のはし」とある。 昔、橋の北詰に船番所があったので、そう呼ばれていた。 この橋が「万年橋」の名で見られるのは、享保17年(1732)の地図『分道本所大繪圖 坤』の頃から。 小名木川は、江戸初期に家康が小名木四郎兵衛に命じて作らせたと言うのが通説で、どうやら、地誌『新編武蔵風土記稿』に「此川慶長年中小名木四郎兵衛掘割し故の名と云へり」と記載があるのが根拠らしい。 隅田川と荒川の間を東西に一直線に結ぶ運河として、行徳の塩や近郊農村の物産などを江戸へ運ぶ目的で開削された。 しかし、前出の地図では、伊奈半十郎の屋敷が万年橋北詰に存在する事に注目したい。 伊奈半十郎とは、関東代官・伊奈忠治の事で、忠治の父・忠次と忠治本人と忠治の長男忠克の三代に亘って関東代官・関東郡代を勤め、関東地方・江戸の新田開発や治水工事に治績を残すほど土木技術に長じていた。 ここに伊奈氏の屋敷が存在したのは、大プロジェクト・小名木川運河開削に関わったからではないか。 深川周辺には面白い話がたくさんあるので、余談をいくつか許されたい。 まず松尾芭蕉 芭蕉は、伊奈氏の屋敷の隣に「深川芭蕉庵」を構え、延宝8年(1680)から元禄7年(1694)まで居住した。 『江戸名所図会』の「芭蕉庵旧址」には、「松平遠州候の庭中にありて、古池の形今なほ存せりといふ」とある。 有名な句「古池や蛙飛びこむ水の音」はここで詠まれたとされ、図には確かに池がある。 元禄6年(1693)の地図『江戸図正方鑑』では伊奈氏の屋敷がまだあり、元禄12年(1699)の地図『江戸大絵図』からは松平遠江守(遠州候)の屋敷に替わっている。 芭蕉庵が存在したのは伊奈氏の時代であろう。 次は忠臣蔵 赤穂浪士が討入った吉良上野介の屋敷は、両国橋を渡ってすぐの回向院裏にあった。 元禄12年の『江戸大絵図』では、そこに「松平ノボリ」の屋敷があり、これが吉良邸に替わった。 赤穂浪士は討入りの後、主君・浅野内匠頭墓所の泉岳寺に向かう時、両国橋通過を拒まれ、吉良邸から1kmほど南の万年橋を渡って、永代橋を通るルートを採ったようだ。 次は「遠山の金さん」 万年橋から1kmほど北東の菊川には、遠山左衛門尉景元いわゆる「遠山の金さん」の屋敷跡がある。 嘉永2年の地図『江戸切絵図 深川絵図』には「遠山左エ門尉」と記されている。 ここは、「遠山の金さん」より50年くらい前には、池波正太郎の時代小説「鬼平犯科帳」で知られる鬼平こと火付盗賊改・長谷川平蔵の屋敷であった。 安永4年(1775)の地図『本所深川細見圖』ではここに「長谷川平蔵」の名が見える。 かくの如く、深川界隈には興味の尽きない江戸時代物語がそこら中に転がっている。 余談が過ぎた。 この図の左の青瓦屋敷は、『江戸切絵図』(嘉永2年頃)に記載のある「御舟蔵」で、『江戸名所図会』の「深川霊雲院」にもこの「御舟蔵」が描かれている。 右の屋敷は、この当時は松平遠江守・忠栄摂津国尼崎藩6代藩主の屋敷で、裏に深川芭蕉庵跡がある。 その昔は伊奈半十郎の屋敷であった。 小名木川が万年橋の下を流れ出たところは、右から左へ流れ下る隅田川である。 橋の下から富士を見せる面白い構図で、画題も「万年橋下」としている。 この図では、北斎が知っていたとされる遠近法について触れない訳にはいかない。 遠近法には多くの種類があるが、ここでは代表的な「一点透視図法(一点消失図法)」からこの図を見てみたい。 極限に遠いものを一点(消失点)に収束させる図法なので、画面上の任意の一点を消失点として、風景はその点に収束するように描かれる。 ここでは、小名木川の水面、左右の川土手と建物、橋桁などが一点消失図法のように描かれているが、 ① 消失点が一つではなく、左右別に二つある。 ② 消失点は、遠くの地平線(想像位置)と同じ高さになるべきだが、それより下に位置し、しかも左右の高さが異なる。 ③ 左右の橋桁の消失点もまた①と②において矛盾がある。 もうお気づきでしょうが、この図は一点消失図法において矛盾があるのです。 もし、北斎が西洋画法から遠近法を理論的に学んでいたとすれば、このような描き方は絶対にしない。 北斎が遠近法を経験の中から自得したのではないか、と私が考える所以です。 北斎が遠近法を自得したとすれは、それ自身が北斎の天才を何よりも証明するものである。 本図では消失点が二つある矛盾故に、万年橋下が広々と表現される効果をもたらしている。 これが北斎の企みであるとすれば恐ろしいほどの才能と言うしかない。
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"Thirty-Six Views of Mt. Fuji/Honganji Temple at Asakusa in Edo" Hokusai Katsushika
¥3,300
青く澄んで晴れ渡る空に聳え立つ東本願寺本堂の大伽藍。天高く揚がる凧は正月を暗示する。職人たちが大屋根に取り付いて仕事をしているから正月休みはもう過ぎた頃であろう。 棚引く白雲に浮かぶ富士はいかにも正月に相応しく、晴れ晴れとした風景である。 この図は藍摺りであり、他に色摺りもある。私の主観であるが、藍摺りのほうが見事である。 本堂の屋根瓦の藍、家並みの屋根瓦の藍、そして富士の裾野の藍、これらの重い藍色を、空の軽い青色に対比させて、同系色で見事なコントラストを為している。 本堂の左下(方角では東本願寺の南東側)の青瓦の家々は武家屋敷で、弘化改正御江戸大絵図を見ると、ここには実際に武家屋敷が密集している。 因みに、農家は藁葺き、大商家や武家屋敷は瓦葺きが当時の一般的概念である。 瓦屋根の藍色をコントラストさせるために架空の屋根瓦を描いた訳ではない。ここら辺りにも、北斎の写実主義への姿勢が垣間見える。 そして、大屋根の三角形と富士のそれとを相似させて、このシリーズに多く見られる構図に仕上げている。 ご存じのように本願寺には「東」と「西」がある。 そもそも本願寺は開祖の親鸞に始まるが、本願寺として成立するのは、本願寺第三世覚如(かくにょ)が寺院化を試み「本願寺」と号してからである。 時代が下って戦国時代になると、「一向一揆」と呼ばれる浄土真宗本願寺教団の宗教的自治組織が一大勢力となって戦国大名に抵抗した。 その代表的なものは越前・長島一向一揆や石山合戦(信長の石山本願寺攻め)である。 この合戦は最終的には第11世宗主顕如と信長との講和に至るのであるが、講話を巡って浄土真宗本願寺教団内部に分裂が起こる。 顕如の次男准如(じゅんにょ)は講話派、長男教如(きょうにょ)は徹底抗戦派として、両者は対立し東西分裂へ発展する。 准如(西本願寺派)は秀吉の後援を受け、教如(東本願寺派)は家康の後援を受けて分裂は固定化する。東・西のいわれは単に京都の本寺の立地の東・西に拠る。 江戸の当初の東・西本願寺の両方共に明暦3年(1657)の「明暦の大火」により焼失し、それぞれ淺草本願寺と築地本願寺とに移転する。 さて、東・西本願寺の巨大な本堂の姿は、時々の権力者、信長、秀吉、家康に対して大きな影響力を持った本願寺勢力の力を象徴しているとも言える。 『江戸名所図会』には東本願寺と西本願寺の両方の図がある。いずれの本願寺も広壮な境内に巨大な本堂が聳えている。 歌川広重の『江戸名所 浅草東本願寺』では、本堂の巨大な屋根が聳え、右手遠方には浅草寺の堂宇や五重塔が見える。同じく広重の『絵本江戸土産 浅草御門跡』にも東本願寺本堂の大屋根が聳え立つ姿が描かれている。浅草門跡とは東本願寺の別称で、門跡とは皇族や公家が住職である寺院のこと。 この図についての解説の中には間違いも見られるので指摘しておきたい。 まず、「浅草本願寺は一名西本願寺といわれる。築地本願寺の別院である。」という解説が見られるが、西本願寺と東本願寺を根本的に取り違えている。浅草本願寺は東本願寺である。 また、武家屋敷の一角から組み上がる櫓を「火の見櫓」と解説するものも見られるが、これは火の見櫓ではない。 本シリーズの『深川万年橋下』にも火の見櫓が二つ描かれており、また、『江戸名所図会』の「馬喰町 馬場」にも大きく描かれているが、火の見櫓には屋根が付いている。 本図の櫓は井戸掘りの櫓と思われる。「金棒掘り」といわれる掘抜き井戸工法で、先端に鉄製の掘削具を取り付けた竿で30m位の深さまで掘ることができたらしい。 中心に高い一本の棒が伸びているが、これがその掘削具の竿と思われる。 富士の右山裾の奥に山が描かれている。同様の形をした山は『青山圓座枩』・『穏田の水車』・『礫川雪ノ旦』にも描かれているので、北斎が恣意的に描いたものではなく実景であろう。 山の方角は身延山の方であるが、YAHOO地図の二点間直線距離測定と経路の標高グラフで確かめると標高1153mの身延山は見えない。 同じ要領で調べると、南アルプス(赤石山脈)の標高3013mの聖岳なら、それぞれに描かれた図の場所から見えるし、見える山容も描かれた姿に近いので聖岳と断定してもよい。 ついでながら言うと、『尾州不二見原』の場所と富士を結ぶ直線のやや北側に南アルプスの聖岳が位置しているので、『尾州不二見原』に描かれているのは富士でなく、南アルプスの聖岳であるという解説もある。 山頂の冠雪が凜とした空気をさらに引き締めている。 この版は藍刷りです。
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"Thirty-Six Views of Mt. Fuji/Honganji Temple at Asakusa in Edo" Hokusai Katsushika
¥3,300
青く澄んで晴れ渡る空に聳え立つ東本願寺本堂の大伽藍。天高く揚がる凧は正月を暗示する。職人たちが大屋根に取り付いて仕事をしているから正月休みはもう過ぎた頃であろう。 棚引く白雲に浮かぶ富士はいかにも正月に相応しく、晴れ晴れとした風景である。 この図は藍摺りであり、他に色摺りもある。私の主観であるが、藍摺りのほうが見事である。 本堂の屋根瓦の藍、家並みの屋根瓦の藍、そして富士の裾野の藍、これらの重い藍色を、空の軽い青色に対比させて、同系色で見事なコントラストを為している。 本堂の左下(方角では東本願寺の南東側)の青瓦の家々は武家屋敷で、弘化改正御江戸大絵図を見ると、ここには実際に武家屋敷が密集している。 因みに、農家は藁葺き、大商家や武家屋敷は瓦葺きが当時の一般的概念である。 瓦屋根の藍色をコントラストさせるために架空の屋根瓦を描いた訳ではない。ここら辺りにも、北斎の写実主義への姿勢が垣間見える。 そして、大屋根の三角形と富士のそれとを相似させて、このシリーズに多く見られる構図に仕上げている。 ご存じのように本願寺には「東」と「西」がある。 そもそも本願寺は開祖の親鸞に始まるが、本願寺として成立するのは、本願寺第三世覚如(かくにょ)が寺院化を試み「本願寺」と号してからである。 時代が下って戦国時代になると、「一向一揆」と呼ばれる浄土真宗本願寺教団の宗教的自治組織が一大勢力となって戦国大名に抵抗した。 その代表的なものは越前・長島一向一揆や石山合戦(信長の石山本願寺攻め)である。 この合戦は最終的には第11世宗主顕如と信長との講和に至るのであるが、講話を巡って浄土真宗本願寺教団内部に分裂が起こる。 顕如の次男准如(じゅんにょ)は講話派、長男教如(きょうにょ)は徹底抗戦派として、両者は対立し東西分裂へ発展する。 准如(西本願寺派)は秀吉の後援を受け、教如(東本願寺派)は家康の後援を受けて分裂は固定化する。東・西のいわれは単に京都の本寺の立地の東・西に拠る。 江戸の当初の東・西本願寺の両方共に明暦3年(1657)の「明暦の大火」により焼失し、それぞれ淺草本願寺と築地本願寺とに移転する。 さて、東・西本願寺の巨大な本堂の姿は、時々の権力者、信長、秀吉、家康に対して大きな影響力を持った本願寺勢力の力を象徴しているとも言える。 『江戸名所図会』には東本願寺と西本願寺の両方の図がある。いずれの本願寺も広壮な境内に巨大な本堂が聳えている。 歌川広重の『江戸名所 浅草東本願寺』では、本堂の巨大な屋根が聳え、右手遠方には浅草寺の堂宇や五重塔が見える。同じく広重の『絵本江戸土産 浅草御門跡』にも東本願寺本堂の大屋根が聳え立つ姿が描かれている。浅草門跡とは東本願寺の別称で、門跡とは皇族や公家が住職である寺院のこと。 この図についての解説の中には間違いも見られるので指摘しておきたい。 まず、「浅草本願寺は一名西本願寺といわれる。築地本願寺の別院である。」という解説が見られるが、西本願寺と東本願寺を根本的に取り違えている。浅草本願寺は東本願寺である。 また、武家屋敷の一角から組み上がる櫓を「火の見櫓」と解説するものも見られるが、これは火の見櫓ではない。 本シリーズの『深川万年橋下』にも火の見櫓が二つ描かれており、また、『江戸名所図会』の「馬喰町 馬場」にも大きく描かれているが、火の見櫓には屋根が付いている。 本図の櫓は井戸掘りの櫓と思われる。「金棒掘り」といわれる掘抜き井戸工法で、先端に鉄製の掘削具を取り付けた竿で30m位の深さまで掘ることができたらしい。 中心に高い一本の棒が伸びているが、これがその掘削具の竿と思われる。 富士の右山裾の奥に山が描かれている。同様の形をした山は『青山圓座枩』・『穏田の水車』・『礫川雪ノ旦』にも描かれているので、北斎が恣意的に描いたものではなく実景であろう。 山の方角は身延山の方であるが、YAHOO地図の二点間直線距離測定と経路の標高グラフで確かめると標高1153mの身延山は見えない。 同じ要領で調べると、南アルプス(赤石山脈)の標高3013mの聖岳なら、それぞれに描かれた図の場所から見えるし、見える山容も描かれた姿に近いので聖岳と断定してもよい。 ついでながら言うと、『尾州不二見原』の場所と富士を結ぶ直線のやや北側に南アルプスの聖岳が位置しているので、『尾州不二見原』に描かれているのは富士でなく、南アルプスの聖岳であるという解説もある。 山頂の冠雪が凜とした空気をさらに引き締めている。
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"Thirty-six Views of Mt. Fuji/Goten-yama-hill, Shinagawa on the Tokaido" (Additional 10) "Hokusai Katsushika"
¥2,700
この作品は「裏富士」と通称される追加出版10作のうちの1枚です。 御殿山とは、今の品川区北品川にある東京マリオットホテルの一帯の高台を言った。 江戸時代には桜の名所として有名で、この桜を題材にして多くの浮世絵師たちが作品を残している。 中でも歌川広重が多作で、他にも歌麿、豊国、鳥文斎栄之などがあり、歌麿のものは『御殿山の花見駕籠』三枚組で、お姫様の花見を題材にした艶やかで豪華な作品です。 昔、御殿山には城があり、太田道灌が江戸城に移る前には、その御殿山城に居住していた。 徳川家康が江戸城に入ってから御殿山城は「品川御殿」と呼ばれ、歴代将軍の鷹狩の際の休息所や茶会の場所として使われていた。 品川御殿は元禄15年の大火災で焼失し、その後、再建されなかったが、御殿山には寛文年間(1661年~1673年)から桜が移植されはじめ、600本余りもの桜の名所となった。 斎藤月岑による江戸の地誌『江戸名所図会』(巻之二第四冊、国立国会図書館デジタルコレクション)にも『御殿山 看花』の図があり、武士、町人を問わず行楽している様子が描かれている。 この御殿山は幕末になると、外国船の襲来に備えた品川御台場(砲台をお台場と言い、今日のお台場がそこです)建設の埋め立てのために切り崩され、山と言うより高台になってしまった。 またその後、幕府は英国など諸外国の公使館を御殿山に建設することを計画した。 しかし、文久2年12月、完成直前のイギリス公使館は高杉晋作や伊藤俊輔(伊藤博文)らの焼打ちに遭い全焼した。 桜が咲き誇る高台から眺めれば、春の明るい海が広がる彼方に冠雪をかなり残した富士が見える。 御殿山から見える海は品川沖と呼ばれ、菱垣廻船や樽廻船などで賑わったので、他の絵師のほとんどが「お約束」のように、密集して浮かぶ帆船を描いているが、北斎はこれを敢えて省いている。 遠景に富士、近景には桜とめいめいに楽しむたくさんの人びとが描かれているこの図の海に、帆柱を林立させて船を描き加えると絵そのものが台無しになってしまう。 あれ程、写実に拘る北斎が、大胆にも品川沖に付きものの帆船を省いてしまうところに、彼の天才を感じますね。 武士、町人を問わない人びとはそれぞれに花見を楽しんでいる。この図にもまた、人びとの暮らしの物語が北斎によって生き生きと描かれている。