-
"Thirty-six views of Mt. Fuji/Lake Suwa in Shinano Province" "hokusai Katsushika"
¥3,900
富嶽三十六景シリーズは藍摺りが10作品あり、これはそのうちの一枚で、この10作品は当初出版が藍摺りで、その後の版が色摺りとなったようである。そもそも藍摺りとは何なのか? 本来、日本では青色はツユクサや本藍から作った顔料を使用していた。これは植物由来で褪色しやすかった。 江戸後期になるとドイツで開発された化学合成顔料のベロ藍が輸入され、その発色が格段に美しく大流行した。ベロ藍とは「ベルリン藍」がなまった言葉で、世界的には今日でも「プルシャンブルー」で通用している。 「プルシャンブルー」とは「プロシア(ドイツ語ではプロイセン)のブルー(青)」と言う意味です。いわゆる「北斎ブルー」と喧伝されるようになったのは、このシリーズの藍摺りの発色が見事で海外の画家たちが高く評価したからです。 しかしよく考えてみると、海外由来の顔料の発色が海外で高く評価されるというのもおかしな話で、これは単に藍摺りの発色だけでなく、青色の使い方や構図などの芸術性の高さなどを含めて「北斎ブルー」が造語されたとみてよいのではないだろうか。 浮世絵に初めてベロ藍を使用したのは北斎ではなく、渓齊英泉であった事を指摘しておかねば「北斎ブルー」の由来も誤解されかねない。 遠景に富士を配し、近景に松の木と社(やしろ)、その間には諏訪湖が広々として静まりかえっている。社の周りには「藁にお」(前回投稿の『相州梅澤左』に触れています)が積まれているので晩秋の風景であろう。 この『信州諏訪湖』は、見事なまでの澄み切った美しさが藍摺りで表現されている。 中央に見える城は諏訪高島城で、かっては武田氏の諏訪地方支配の拠点であった。
-
"Thirty-six Views of Mt. Fuji/Dawn at Isawa in Kai Province " "Hokusai Katsushika"
¥3,900
伊沢とは現在の石和(山梨県笛吹市)のことで、古くは石禾、井沢、伊雑とも表記していた。 現在でも地図を見ればよく分かるが、この辺りは笛吹川水系のたくさんの川が流れていて、古くから荒れた湿地帯でした。 その湿地帯の沢には畳表などに使われる藺草(いぐさ)が群生していて、「藺(い)の沢」と呼ばれていたのが地名の由来らしい。 武田氏初代当主、武田信義の五男・武田五郎信光は甲斐国八代郡石和荘に石和館を構えて石和五郎と称し、甲斐国・安芸国の守護であった。 武田信玄の父・信虎の時に甲府の躑躅ヶ崎(つつじがさき)に移るまでは、石和が甲斐武田氏の本拠地であった。 余談ながら、広島市安佐南区の武田山に佐東銀山城跡があり、この城は安芸国守護・安芸武田氏の本拠地であったが、天文10年(1541年)の毛利元就との戦いで安芸武田氏は滅亡する。 伊沢は今では石和温泉としてよくしられている土地ですが、温泉は昭和36年に湧出したもので、江戸時代には温泉はなく、甲州街道の宿場町として大変栄えていたようです。 この図は甲州街道伊沢宿の払暁の旅人の出立風景を描いたもので、僅かに旅籠の窓明かりが漏れる薄暗がりの中で、慌ただしく人びとが立ち騒ぐ声が聞こえてきそうな図です。 伊沢からは真南の方角には富士が黒々と佇み、棚引く雲海の手前に笛吹川(鵜飼川とも)が流れている。旅人のほとんどが右の方向に向かっているので、この場所は次の宿場甲府柳町へ向かう伊沢宿の西はずれであることが分かります。 彼方には橋が見えますが、笛吹川を渡る鎌倉往還の木橋です。 甲州街道と鎌倉往還はこの伊沢宿で合流しているのですが、その正確な場所を現在の地図上で説明します。 甲府から伊沢までの甲州街道は国道411号線とほぼ同じで、この道を甲府から大月市方向(江戸方向)に進んで石和温泉駅入口交差点を直進し、更に進むと遠妙寺三叉路交差点に至る。 ここを直進すると現在は笛吹川通り(国道411号線)と通称される甲州街道で、そのまま大月市に向かう。 この三叉路を右の方に曲がると通称鵜飼橋通りと言われる鎌倉往還に入り、そのまま進むとすぐに鵜飼橋に至る。 図に見える木橋は現在の鵜飼橋とほぼ同じ位置であったと思われます。 鎌倉往還の甲府への道筋は、鎌倉から小田原を経由して足柄峠を越え、富士の東側の山裾を御殿場・須走・「籠坂峠」・山中湖・河口湖と通過し、御坂峠を越えて漸く甲府盆地へ至る。 道中の「籠坂峠」は通称を「三嶌越」と言い、北斎の『富嶽三十六景 甲州三嶌越』に描かれている峠です。 旅人たちが手をつないでその大きさを測っている杉の巨木を図の中央に据え、その彼方に富士山が描かれている図で以前に投稿した作品です。 ところが、この杉の巨木は「籠坂峠」に存在した形跡が全くなく、実は北斎が構図を面白くするために、甲州街道の方の「笹子峠」に今も存在する「矢立の杉」を持ってきたのではないか、というエピソードがあるのです。 この図は、企画された『富嶽三十六景』36図が出版完了した後に追加出版された、通称「裏富士」と言われる10図のうちの一枚です。 「裏富士」ものは、主版(おもはん)と言う輪郭線の顔料に、36図で使われた「ベロ藍」ではなく墨を使っているので簡単に判別できます。
-
"Tsukuda Island in Musashi Province " "Hokusai Katsushika"
¥3,300
現在の「東京都中央区佃1丁目」の辺りが、この図に描かれた佃島である。当時は、隅田川河口に近い永代橋から富士を眺めれば、右側に佃島、そのすぐ左側には石川島が見えた。 この図では、右手の家が建ち並ぶ小さい方の島が佃島で、左の木立に囲まれたのが石川島。 佃島は、正保元年(1644)に摂津国佃村(現・大阪府西淀川区佃)の漁師たちが江戸に呼び寄せられ、隅田川河口の寄州を埋め立てて作った島です。その事情は徳川家康に関係するが後で触れる。 古地図『新撰増補大坂大絵図』(1691年)には神崎川の中州に「佃田村」が見られる。 度々引用するが、斎藤月岑の『江戸名所図会』には佃島の図が3図あり、白魚漁の様子や海上交通の盛んな様子が描かれている。 そのうちの『佃島 白魚網』にたくさん描かれている「四手網」漁は、水深の浅い場所で小魚などを獲る漁法で、「四手網」と言う四角形の敷網を沈めておいて、漁火などで小魚をおびき寄せて網を引き上げる。 この「四手網」は、歌麿の3枚組絵「四手網」と言う作品では、一種の観光漁船遊びと言う趣で描かれている。 初代歌川広重の『名所江戸百景 第四景 永代橋佃しま』と言う図も、永代橋の橋下から佃島の方角を眺めた夜景であるが、漁火を焚きながら白魚漁をする四手網が描かれている。 同じく初代歌川広重の『東都名所佃島入船ノ図』には、五大力船と呼ばれる廻船など大小様々な船が描かれているが、この図の左端にも「四手網」漁をする小舟が描かれている。 また、二代目歌川広重には、佃島住吉神社から対岸を眺めた『江戸名所四十八景三十 佃しま』と言う図がある。 今日でも使われている「江戸前」とは、魚影が豊富であった江戸湾の漁場のことであるが、狭義には、かって存在した「江戸前島」や「佃島」周辺を指した。 我々の知る佃煮の始まりはこの佃島にあるが、傷みの早い白魚の保存食がその始まりかも知れない。 隣の石川島は元々あった島で、江戸時代初期には「森島」または「鎧島」と呼ばれていた、と前出の『江戸名所図会』には書かれている。 3代将軍家光の時代に、旗本石川正次がこの島を拝領し、その屋敷もあったので、石川島と呼ばれるようになった。 石川正次は2代将軍秀忠の時代に御船奉行として幕府水軍を率いる役目であった。時代は下って嘉永6年(1853)に、幕府は石川島に造船所を設置し、軍艦を建造した。 これが現在のIHI(石川島播磨重工業)の前身となった。 幕府の御船奉行の家名が現代の造船会社に引き継がれていく、と言う因縁めいた話である。 この図は『富嶽三十六景』シリーズの中の藍摺り10枚のうちの1枚で、後で色摺りも出版されている。 富士は隅田川河口から南西の方角に見え、左に伸びる富士の稜線の手前には伊豆半島の付け根の山々が見える。 一番手前に見えているはずの三浦半島には標高200mそこそこの山しかない。 従って、石川島の真向こう遠くに見えるこんもりとした山は、おそらく伊豆半島の天城山(標高1405m)ではないかと思われる。 図の中央手前に大きく描かれた舟の積荷は何であろうか? 三角に高く積み上げられて、遠景の富士と相似を為している。 ベロ藍で美しく仕上げられた図は、いかにも江戸前の広々とした湾の物産が盛んな様子を、それぞれの舟の姿と林立させた帆柱で見事に表現している。 さて、江戸佃島の始まりのことである。 徳川家康が慶長8年(1603年)に江戸幕府を開いたとき、摂津国佃村の名主森孫右衛門一族7名と漁民33名を江戸に呼び寄せ、隅田川の砂州を埋め立てさせて漁村を作った。 わざわざ摂津国の漁民を呼び寄せた理由は次のようである。 天正10年(1582年)に明智光秀による「本能寺の変」が起こったとき、織田信長に招かれて上洛していた徳川家康は、摂津国堺見物を済ませ、京都へ上洛する途中の河内国飯盛山付近(現・大阪府四條畷市)で信長の横死を知ったに。 一刻も早く家康の本拠地岡崎城に戻らねばならない。 明智勢の追及を避けながら、主従僅かな人数での逃避行は実に危険であった。 そのときに摂津国佃村の漁民たちが家康の逃避行に力を貸したので、家康はその恩義に報いるために江戸に呼び寄せ、漁業的特権を与えた、と言うのである。 似た話は、家康一行の「伊賀越え」の逃避行にもあり、この時、服部半蔵を始めとする伊賀者や甲賀者が手助けをしたので、両者とも家康に召し抱えられる事になった。 お庭番、即ち伊賀・甲賀者の忍者と言うような俗説がまかり通っているようだが、お庭番とは8代将軍吉宗が新しく設けた幕府の職制で、平たく言えば、伊賀・甲賀者が隠密として使い物にならなくなったので、新しい職制を導入したのが実情らしい。
-
"Thirty-Six Views of Mt. Fuji/Sundai, Edo" Hokusai Katsushika
¥2,700
「東都」とは西の都・京都に対して江戸を表す言葉であるが、言葉の響きにはますます拓けゆく江戸を誇る気分が漂っている。 「駿臺」は言うまでもなく駿河臺を縮めたものである。 駿河台の名前の由来は後述するが、ここは武家屋敷が密集する高台であった。 駿河(静岡県の中部)は家康の本拠地であり、この地で没してもいるので、家康が「神君」と呼称されたこの時代の江戸人たちには「駿河」の言葉は特別の価値を持っていたのではあるまいか。 秀吉などが「神君」などと言う仰々しい呼称を聞けば、「ほお、あのタヌキ爺ぃは死んで神様になったのか」と呆れるに違いない。 『東都駿河臺』と言わずに『東都駿臺』と縮めた言い方に、「おうよ、ここがその江戸の駿台よ」と言うような気負いが感じられる。 神田駿河台と本郷湯島台とはもともと一つの本郷台地であったが、元和6年(1620)、二代将軍徳川秀忠の命を受けた仙台候伊達政宗が仙台堀を開削し、二つに分かれた。 千駄木辺りから南に向かって西洋人の鼻みたいにだらりと垂れ下がる本郷台地の先端を仙台堀が切り取って神田駿河台に分けて隅田川に流れ込む。 やがて仙台堀は神田川と呼ばれるようになり、今日でも神田駿河台と本郷・湯島の間を分かつように流れている。 尤も、江戸人の優越意識をくすぐった駿河台の呼び名も、現在では千代田区神田駿河台一丁目・二丁目と格下げになってしまっている。 さて駿河台の名前の由来のことである。 『江戸名所図会』によれば、駿河台は「昔は神田の臺と云う。此の所より富士峯を望むに掌上に視るの如し。故に此の名ありと言えり。 一説に昔駿府の御城御在番の衆に賜りし地なる故に号とすといへども、證(あかし)なし。」と記されている。 今日でも駿河台の名の由来を、家康の没後に家康付を解かれた旗本(駿河城在番衆)たちが江戸にもどって与えられた土地なので駿河台と称した、と言う説がまかり通っている。 しかし、『江戸名所図会』で「證(証、あかし)なし」とするのを覆す根拠を少なくとも私は知らない。 旧字の「臺」は訓では「うてな」と読み、例えば「蓮のうてな」と言えば立像や座像の仏像が据えられている、蓮の花びらに囲まれた台座のことであり、あるいは台地のことである。 神田駿河臺の場合、台地の上に富士すなわち駿河が乗っかって見えるから「駿河臺」と称された、と自然に考えてよいのではないか。 どうしても駿河城在番衆移住説に拘るなら、江戸切絵図などで駿河台一帯に「駿河城在番衆」の屋敷を見つけなければ証明できない。 家康の死後に駿河城在番の任務を解かれた、そこそこ数の在番衆が江戸に戻って駿河台に屋敷を構えたはずである。 後年、駿府勤番となって駿府に赴任した榊原香山が天明3年(1783)に著した『駿河国志 8巻』(国会図書館デジタルコレクション所蔵)には、在番衆の記録がある。 寛永9年より明和7年までの駿河在番の武士名などの記録である。 駿河台に移った在番衆の子孫がその任務を引き継いで派遣された可能性もある。 「駿河台」の由来を想像させるもう一つの事実がある。 『駿河台小川町絵図』(嘉永3)の駿河台の場所には、「駿河守」の屋敷が三つある。 信濃高遠藩内藤駿河守(3万3千石)の上屋敷、今治藩久松松平駿河守(3万5千石)の上屋敷、平賀駿河守の屋鋪がそれである。 平賀駿河守(勝足)は大目付で岩場高級官僚であり屋鋪も小さいが、内藤駿河守と久松松平駿河守はれっきとした大名でその上屋敷は広大である。 内藤駿河守については『富嶽三十六景 駿州大野新田』の解説で既に触れたが、東京新宿の地名の由来となった大名である。 久松松平駿河守は家康の母「於大の方」が知多郡阿古居城主久松俊勝に再嫁した家であり、家康は久松家に松平を名乗らせて厚遇した。 「駿台」の由来に拘って字数を費やしてしまった。 この図は仙台堀(神田川)の向こう側に不二が見えるので、湯島側から眺めた図である。 駿台の高台には武家屋敷の屋根瓦のみが見えるが、北斉は瓦屋根の表現にほとんど濃紺を使っているのに、この図では珍しく茶色に仕上げている。 暑い夏の陽に焼けた屋根を表現するためにこの色を採用したのであろうか、大きな荷物を運ぶ行商人は頭上に扇子をかざして日差しを避けている。 彼方に不二を臨む空はうだるような暑さを表して赤く濁っている。不二の冠雪の多さが気になるが或は初夏なのか。 仙台堀の掘削の跡が荒々しく表現されて見事なのは摺師の技に拠る。
-
Thirty-Six Views of Mt. Fuji/Nihonbashi bridge in Edo" Hokusai Katsushika
¥2,700
政治家が最優先政策課題を言い表すのに「一丁目一番地」とよく言うが、単なる修辞的印象が強い。 しかし庶民気分で言うと、江戸時代の日本橋はまさに文字通り、江戸の町の「一丁目一番地」であったようだ。 いや、日本橋に対するその気分は昭和時代まで続いたと言えるかも知れない。 現在の東京都中央区日本橋1丁目1番地は「日本橋」の南詰めがそこであるが、上を首都高速が走り、江戸の町を代表してきた「一丁目一番地」的な面影はもはや感じられない。 江戸時代には、いわゆる五街道(東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道)の起点がこの日本橋である。 日本橋を出発して最初の宿は、東海道が品川宿、中山道が板橋宿、甲州街道が内藤新宿、日光街道と奥州街道が千住宿で宇都宮宿に至ってそれぞれに分岐する。 当時の参勤交代などの事情を考えると、諸街道の最終結節点としての日本橋が突出して発展したのも理解できる。 しかし、家康が移封になった天正18年(1590)の頃の江戸は、太田道灌が築いた江戸城すら荒廃していた有様で、家康はまず領国経営のインフラ整備からはじめた。 大久保長安、青山忠成、伊奈忠次、長谷川長綱、彦坂元正らを関東代官として任命し、江戸開発に当たらせる。 伊奈忠次については『富嶽三十六景 深川万年橋下』でも少し触れた。 初期の頃から「道三堀」が海運と防御を兼ねて開削され、続いて掘られた平川(日本橋川)を経て江戸湊に至る運河が開通した。その平川に架けられたのが「日本橋」である。 江戸の発展は、①埋め立てによる市街地と農地の造成、②運河の開削による海運と低湿地の排水、と言う巨大な土木事業に依存した。 当然、膨大な労働力を必要としたが、徳川幕府が成立すると「千石夫」と言われる人夫役が諸大名に課せられた。これは石高千石に1人の割合で人夫を供出する制度で、江戸初期の全国石高は約2千5百万石だから、単純計算で2万5千人もの動員となる。 これが雇用と消費を生み、生産農地の拡大と海運を主とする流通がこれを支えてきたと言える。 やがて江戸の人口は18世紀の初めには100万人を超えたと言われるが、その頃に100万人を超えていたのは北京、広州、ロンドンだけで、パリが55万人、ニューヨークにいたっては6万人弱である。(イアン・モリス,歴史学者 スタンフォード大学教授の推計) この巨大都市の中心地日本橋の北詰の室町一丁目~三丁目は老舗の商店が数多く軒を連ねる江戸の目抜き通りであった。 その代表格は三井越後屋呉服店(現在の三越百貨店)である。この店の一日の売上が俗に千両と言われたが、「1日の売上高は、・・・そばに換算すると、1杯16文として17万168杯分に当たると計算しており」(江戸食文化機構 監修・著 松下幸子千葉大学名誉教授より) と大変な額であった。 当時のそば1杯の値段が現在のうどん1杯600円と同じくらいであるとして現在の売上に換算すると、何と一日の売上が1億円余りにもなる。 また、7世紀の初めの頃から、日本橋と江戸橋の間の日本橋川北岸に沿って魚河岸(日本橋魚市)があり、1935年に築地市場へ移転するまで続いた。 『富嶽三十六景 深川万年橋下』の解説で触れた深川芭蕉庵は、芭蕉門人で日本橋の魚問屋・鯉屋の主人でもある杉山杉風が鯉屋の生簀の番屋を芭蕉に提供したものである。 さてこの図の主題もやはり日本橋の賑わいであろう。 東西に流れる日本橋川(平川)を南北に跨ぐ日本橋の上を多くの人たちが行き交っている。左右には蔵が立ち並び、運河を利用した物流が盛んである様子が描かれている。 正面に見えるのは日本橋川の終点に架かる一石橋で、その向こうには江戸城の外濠川が左右に広がる。 この図は富士、江戸城と日本橋上のバランスをとるために視点を高くとり、やや俯瞰した感じで描いている。 「富士はその方向には見えない」とこの図の構成を「北斎の拵えだ」とする解説もあるが、日本橋と富士山頂を直線で結ぶと桜田門を僅かにかすめるので、富士より少し右に江戸城天守が見えることになる。 歌川広重の『江都名所日本ばし』でも日本橋と江戸城天守と富士はこの図の位置関係と同じに描かれている
-
"Tsukuda Island in Musashi Province " "Hokusai Katsushika"
¥3,300
現在の「東京都中央区佃1丁目」の辺りが、この図に描かれた佃島である。当時は、隅田川河口に近い永代橋から富士を眺めれば、右側に佃島、そのすぐ左側には石川島が見えた。 この図では、右手の家が建ち並ぶ小さい方の島が佃島で、左の木立に囲まれたのが石川島。 佃島は、正保元年(1644)に摂津国佃村(現・大阪府西淀川区佃)の漁師たちが江戸に呼び寄せられ、隅田川河口の寄州を埋め立てて作った島です。その事情は徳川家康に関係するが後で触れる。 古地図『新撰増補大坂大絵図』(1691年)には神崎川の中州に「佃田村」が見られる。 度々引用するが、斎藤月岑の『江戸名所図会』には佃島の図が3図あり、白魚漁の様子や海上交通の盛んな様子が描かれている。 そのうちの『佃島 白魚網』にたくさん描かれている「四手網」漁は、水深の浅い場所で小魚などを獲る漁法で、「四手網」と言う四角形の敷網を沈めておいて、漁火などで小魚をおびき寄せて網を引き上げる。 この「四手網」は、歌麿の3枚組絵「四手網」と言う作品では、一種の観光漁船遊びと言う趣で描かれている。 初代歌川広重の『名所江戸百景 第四景 永代橋佃しま』と言う図も、永代橋の橋下から佃島の方角を眺めた夜景であるが、漁火を焚きながら白魚漁をする四手網が描かれている。 同じく初代歌川広重の『東都名所佃島入船ノ図』には、五大力船と呼ばれる廻船など大小様々な船が描かれているが、この図の左端にも「四手網」漁をする小舟が描かれている。 また、二代目歌川広重には、佃島住吉神社から対岸を眺めた『江戸名所四十八景三十 佃しま』と言う図がある。 今日でも使われている「江戸前」とは、魚影が豊富であった江戸湾の漁場のことであるが、狭義には、かって存在した「江戸前島」や「佃島」周辺を指した。 我々の知る佃煮の始まりはこの佃島にあるが、傷みの早い白魚の保存食がその始まりかも知れない。 隣の石川島は元々あった島で、江戸時代初期には「森島」または「鎧島」と呼ばれていた、と前出の『江戸名所図会』には書かれている。 3代将軍家光の時代に、旗本石川正次がこの島を拝領し、その屋敷もあったので、石川島と呼ばれるようになった。 石川正次は2代将軍秀忠の時代に御船奉行として幕府水軍を率いる役目であった。時代は下って嘉永6年(1853)に、幕府は石川島に造船所を設置し、軍艦を建造した。 これが現在のIHI(石川島播磨重工業)の前身となった。 幕府の御船奉行の家名が現代の造船会社に引き継がれていく、と言う因縁めいた話である。 この図は『富嶽三十六景』シリーズの中の藍摺り10枚のうちの1枚で、後で色摺りも出版されている。 富士は隅田川河口から南西の方角に見え、左に伸びる富士の稜線の手前には伊豆半島の付け根の山々が見える。 一番手前に見えているはずの三浦半島には標高200mそこそこの山しかない。 従って、石川島の真向こう遠くに見えるこんもりとした山は、おそらく伊豆半島の天城山(標高1405m)ではないかと思われる。 図の中央手前に大きく描かれた舟の積荷は何であろうか? 三角に高く積み上げられて、遠景の富士と相似を為している。 ベロ藍で美しく仕上げられた図は、いかにも江戸前の広々とした湾の物産が盛んな様子を、それぞれの舟の姿と林立させた帆柱で見事に表現している。 さて、江戸佃島の始まりのことである。 徳川家康が慶長8年(1603年)に江戸幕府を開いたとき、摂津国佃村の名主森孫右衛門一族7名と漁民33名を江戸に呼び寄せ、隅田川の砂州を埋め立てさせて漁村を作った。 わざわざ摂津国の漁民を呼び寄せた理由は次のようである。 天正10年(1582年)に明智光秀による「本能寺の変」が起こったとき、織田信長に招かれて上洛していた徳川家康は、摂津国堺見物を済ませ、京都へ上洛する途中の河内国飯盛山付近(現・大阪府四條畷市)で信長の横死を知ったに。 一刻も早く家康の本拠地岡崎城に戻らねばならない。 明智勢の追及を避けながら、主従僅かな人数での逃避行は実に危険であった。 そのときに摂津国佃村の漁民たちが家康の逃避行に力を貸したので、家康はその恩義に報いるために江戸に呼び寄せ、漁業的特権を与えた、と言うのである。 似た話は、家康一行の「伊賀越え」の逃避行にもあり、この時、服部半蔵を始めとする伊賀者や甲賀者が手助けをしたので、両者とも家康に召し抱えられる事になった。 お庭番、即ち伊賀・甲賀者の忍者と言うような俗説がまかり通っているようだが、お庭番とは8代将軍吉宗が新しく設けた幕府の職制で、平たく言えば、伊賀・甲賀者が隠密として使い物にならなくなったので、新しい職制を導入したのが実情らしい。 この版は、藍刷りである。
-
"The Great Wave off Kanagawa/Thirty-six Views of Fuji" Hokusai Katsushika
¥3,900
富嶽三十六景の中の代表作、いや、北斎の生涯の作品中の代表作とも言えるこの図は、当然のことながら世界中の多くの人びとが知っている。 この『神奈川沖浪裏』は今でも強烈なインパクトを我々に与えるが、当時の初出版においては更に大きな反響を呼んだに違いない。 版元永寿堂西村与七の優れた企画力と北斎の円熟した表現力とが相乗して見事な富嶽三十六景シリーズは、この一枚と双璧を為すもう一枚の『凱風快晴(赤富士)』とによって以後の成功を約束されたと言ってよい。 富嶽三十六景の出版順序について様々な意見がある中で、この図がシリーズ最初の出版とする見方が固まりつつある。 この図の見どころは、見上げるばかりの大波であることに誰も異論はない。 右端のうねりが舟と共に左に向かって下降しながら底を打って反転し、今度は大波として迫り上がって、その波頭が迫り上がりの限界点を迎えて今まさに砕けんとする瞬間。 その瞬間を切り撮った静止画でありながら、この動的な一連の繋がりは決して静止していない。 この図の迫力を生み出している根源と言えるであろう。 更に、迫り上がる大波の背に盛り上がった海面を僅かに描き加えて海面の落差を表現し、大波の量感と迫力を補強している。 この図の大波の余りにもの迫力ゆえに、これは津波を描いたものだという見方すらあるが、これを少し考えてみたい。 まず津波説。 富嶽シリーズには人びとの暮らしの日常を物語り仕立てにして描いている図が多いが、その仕立て(勿論、構図の組立てをも含む)の為に、非日常的な大津波を外連味(けれんみ)たっぷりに描くような愚は北斎なら犯さないであろう。 この大波はこの辺りで時々見られるものとして北斎は描いているに違いない。 さてそれでは、「この辺り」はどこか。 舟そのもの、舟の走っている場所とその向かう先、北斎がこの図に込めた作画意図などの点からもう少し深掘りをしてみたい。 富士が右手に見えるということは、江戸に鮮魚などを搬送したあと、神奈川宿沖合の浦賀水道を南下して母港に帰る船団を描いたか、あるいは平塚辺りから江戸に鮮魚などを届けるために相模湾を南下して浦賀水道に向かう船団を描いたか。 この舟は押送船(おしおくりぶね、が訛って、おしょくりぶね、とも)と言って、周辺で取れた鮮魚を江戸に搬送する高速船である。 軍事的理由から八丁魯は禁止され七丁魯が基本だが、図の漕ぎ手は8人である。あるいは江戸後期には八丁魯が許されていたのか。 この舟は図のように3艘の船団を組んで、帆と櫓の併用で走る。 ところで、このような大波は浦賀水道ではあり得ないが、相模湾の沖合には水深1000m級の相模トラフという海底盆地が横たわり、複雑な海底地形が荒波を形成しやすく、また大津波に度々襲われた記録もある。 歌川広重の『本朝名所 相州七里ヶ浜』や『諸国名所百景 相州七里が浜』にも荒れる高波が描かれている。 さて、この図の衝撃的な構図に眼を奪われて、ともすれば私たちは作者北斎がこの図で表現しようとしたものが何であるのか、見過ごしてしまいがちである。 私はこの図を、相模湾の大波に立ち向いながら江戸に鮮魚を届ける押送船の男たちの使命感溢れる姿を描いたものだと考える。 ここにもまた北斎がシリーズで好んで描いている人びとの暮らしの姿がある。 江戸からの返り船なら何もこんな危険を冒すことはない。風波が治まるのを待てばよいし、仕事を済ました返り船が大波に立ち向うと言う図はドラマにならない。 「神奈川沖」という画題は狭義に解釈したくはない。 Many people around the world are familiar with this work, which can be said to be one of the masterpieces of Thirty-six Views of Mt. Fuji, or rather, one of the masterpieces of Hokusai's life. This painting, "Kanagawa Okinamiura," still has a strong impact on us today, but it must have caused a great sensation when it was first published.
-
"Thirty-six Views of Mt.Fuji Rainstorm Beneath the Summit" "Hokusai Katsushika"
¥3,900
富嶽三十六景の中で『凱風快晴』が通称「赤富士」と呼ばれるのに対して、本作品は通称「黒富士」と呼ばれる。 白雨とはにわか雨のことをいうらしいが、この作品は一般的には、山裾はにわか雨の黒雲に覆われ、その黒雲を稲妻が切り裂いている、と評されています。 だが、私は一つの疑問を持っている。富嶽三十六景シリーズは各作品ともかなり多く残っています。『山下白雨』も然りです。そのうちの一部には、山裾が茶色から黒雲に変わる辺りに、白色を薄く刷毛で掃いたようなボカシが見られるものがあります。(本投稿はそれです) 他の摺りにもボカシほど明らかではないが、もしかしたら白色は退色したのではないかと思える痕跡があったりします。 画題の『山下白雨』を考えると、黒雲の下には白雨が降っていることを想像させるのではなくて、北斎は実際に「白雨」描いたのではないだろうか。 素直な気持ちでこの作品を見続けると、むしろ白雨のボカシが摺り込まれている方が、画題との兼ね合いでしっくりする。 あるいは強引な仮説かなと思わないでもないが、該当箇所の顔料の科学的分析で答えは出るのではないだろか。
-
"Thirty-six views of Mt. Fuji/South Wind, Clear Sky" Hokusai Katsusika"
¥3,900
快晴の藍色の空に棚引く白い鰯雲、その空を凱風(南風)が吹き渡っていく。雄大な富士の姿は泰然として揺るがない。 富士の圧倒的な存在感を表したものとしてこれ以上のものはない。 夏の終りから初秋にかけての早朝、朝焼けを浴びて富士が赤く染まることがあるらしく、その情景を描いたものと言われる。通称「赤富士」とも。 異説として、単に意匠としてインパクトを持たせるために赤色にした、と言う説もある。 北斎には既成の概念に囚われない大胆さと同時に、その大胆さの元になる「Fact」がある。 北斎の写実主義とはそう言うものであるように思う。従って「単に意匠として」という説に私は与(くみ)しない。 また、この富士はどこからの眺めか、と言う議論も盛んである。 シリーズの中で、空を背景として富士の山体だけを描いているのはこの図のみで、構図がほぼ同一と言ってよい『山下白雨』には遠景の山も描かれている。 北斎は富嶽シリーズにかける情熱をこの図に象徴的に注いだのではないか。画面から夾雑物の一切を捨象して「The Fuji」を描いたのではないか。 だから「どこからの眺めか」の議論はさほど意味を持たない。 富嶽シリーズは出版順が定かではないが、この図が最初に出版され、シリーズ大成功の鏑矢となったのではないか。 ともあれ、富嶽シリーズ全46図の中で、『富嶽三十六景 神奈川沖浪裏』と双璧をなす代表作と言える。 全46図が北斎72歳の作品群である事を思えば、その才能は言うに及ばず、彼のエネルギーは常人の及ぶところではない。 シリーズ題からは全部で36図ではないのか?と疑問を持つ方も多い。 実は当初の企画はシリーズ題通りに36図の予定であったが、版元の永寿堂西村屋与八は売行きがよかったので10図を追加出版し、全46図となったのである。 追加出版の10図には少し手抜きがある。 当初出版の36図は主版(おもはん、輪郭線の版)の摺りに高価なベロ藍を使った。 ベロ藍はプルシャンブルーとも言い、当時プロシア(ドイツ)で開発された顔料が日本に流入し、その発色の良さから多くの絵師が使った。 北斎ブルーとも呼ばれる顔料だが、富嶽三十六景で使用されてから評判になったというのは俗説、渓齊英泉が先に使ったようだ。 しかし、追加出版の10図は主版に印刷原価の安い墨を使っており、輪郭線が墨色なので誰にでも判別できる。 通称では当初出版36図を「表富士」と言い、追加出版10図を「裏富士」と言う。 The wind blow from the south in early autumn. The morning glow changes the color of Mt. Fuji to the red. There is two interpretations about the red color of this pic. One is he just drew the impression of that fact, and the other is he tried to express an impact as only design. But I think, actually he's an adventurous realist, but he didn't try the unfactual adventure on drawing. Among these all 46 pics in the “Thirty-six views of Mt. Fuji” series, this pic and “The Great Wave off Kanagawa” could be two masterpieces. Considering that this series is the works at 72-years old, he had not only the great talent, but also the energy much more than other painters.
-
Reflective Love, Kitagawa Utamaro I
¥3,900
Reflective Love, (from the series Anthology of Poems: The Love Section) 「歌撰恋之部 物思恋」 Kitagawa Utamaro I 喜多川歌麿
-
Patient Love, Kitagawa Utamaro I
¥3,900
Patient Love, (from the series Anthology of Poems: The Love Section) 「歌撰恋之部 深く忍ぶ恋」 Kitagawa Utamaro I 喜多川歌麿
-
Obvious Love, Kitagawa Utamaro I
¥3,900
Obvious Love, (from the series Anthology of Poems: The Love Section) 「歌撰恋之部 あらはるる恋」 Kitagawa Utamaro I 喜多川歌麿
-
Cherry-viewing at Gotenyama3. Kitagawa Utamaro I
¥3,900
Cherry-viewing at Gotenyama. 「御殿山の花見駕籠」 Kitagawa Utamaro I 喜多川歌麿
-
Cherry-viewing at Gotenyama2. Kitagawa Utamaro I
¥3,900
Cherry-viewing at Gotenyama. 「御殿山の花見駕籠」 Kitagawa Utamaro I 喜多川歌麿
-
Cherry-viewing at Gotenyama. Kitagawa Utamaro I
¥3,900
Cherry-viewing at Gotenyama. 「御殿山の花見駕籠」 Kitagawa Utamaro I 喜多川歌麿
-
Three Beauties of the Kwansei Period Kitagawa Utamaro
¥3,900
Three Beauties of the Kwansei Period (Tomimoto Toyohina, Takashimaya Ohisa, and Naniwaya Okita) 当時三美人 (富本豊ひな、難波屋おきた、高島屋おひさ) Kitagawa Utamaro 喜多川歌麿
-
Naniwa Okita Admiring Herself in a Mirror Kitagawa Utamaro
¥3,900
Naniwa Okita Admiring Herself in a Mirror 姿見七人化粧 Kitagawa Utamaro 喜多川歌麿
-
The Face of Oshun, Wife of Denbei Kitagawa Utamaro
¥3,900
The Face of Oshun, Wife of Denbei 「伝兵衛女房おしゅんが相」 Kitagawa Utamaro 喜多川歌麿
-
The Widow of Asahiya Kitagawa Utamaro I
¥3,300
The Widow of Asahiya (from the series Renowned Beauties Likened to the Six Immortal Poets) 「高名美人六家撰 朝日屋後家」 Kitagawa Utamaro I 喜多川歌麿
-
Yosooi of the Matsubaya Kitagawa Utamaro I
¥3,300
Yosooi of the Matsubaya (from the series Selections from Six Houses of the Yoshiwara) 「青楼六家選 松葉屋粧ひ」 Kitagawa Utamaro I 喜多川歌麿
-
Beauty and Attendant on New Year’s Day Kitagawa Utamaro
¥3,300
Beauty and Attendant on New Year’s Day (from the series “Pleasures for Beauties on the Five Festival Days”) 「美人五節の遊 七月 回り灯籠」 Kitagawa Utamaro 喜多川 歌麿
-
Geisha`s met sumo poppen Kitagawa Utamaro
¥3,300
Geisha`s met sumo poppen 「松葉屋内 瀬川 市川」 Kitagawa Utamaro 喜多川歌麿
-
The Courtesan Hanaohgi of the Ohgiya Brothel in Yoshiwara Kitagawa Utamaro
¥3,300
The Courtesan Hanaohgi of the Ohgiya Brothel in Yoshiwara 「扇屋内花扇 よしの たつた」 Kitagawa Utamaro 喜多川歌麿
-
Modern Beauty Practicing Joururi Music Kitagawa Utamaro
¥3,300
Modern Beauty Practicing Joururi Music 「当世娘浄瑠璃」 Kitagawa Utamaro 喜多川歌麿