"Thirty-six Views of Mt. Fuji/Watermill at Onden" "Hokusai Katsushika"
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青山穏田村は現在の渋谷区神宮前辺りにあった村で、隣の原宿村と合わせて、当時は江戸近郊の農村地帯という風情でした。
『冨嶽三十六景 青山園座枩』で知られる禅寺龍厳寺も原宿村にあった。そしてこの寺は現在でもそこにある。
ここを流れる渋谷川(現在も暗渠になって流れている)には水車がたくさんあったらしい。
この穏田村・原宿村もまた、佃島の場合と同じエピソードを持つようである。
江戸時代末期に著された地誌 『新編武蔵風土記稿』(『新編武蔵風土記稿』巻ノ10豊島郡ノ穏田村・原宿村、内務省地理局、1884年6月翻刻出版、国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)によれば、天正19年(1591)に伊賀者に穏田村・原宿村ほか計七村が与えられた、という記述がある。
同年は家康が江戸に移封された翌年であり、天正10年(1582)の本能寺の変の時に徳川家康の「伊賀越え」を助けた行賞として伊賀者に与えられた、と見て間違いはないだろう。
同書には「青山園座枩」や渋谷川などの記述もあり、渋谷川には水車橋と呼ばれる木橋が架かっていたことも記されている。
また、原宿の名の由来についても、「当所は古へ相模国鎌倉より奥州筋の往還係て宿駅を置きし所、故この名あり」と書かれている。
つまり、「千住宿」や「品川宿」のように「原」という場所に立てられた「宿」、すなわち「原宿」となったのである。
この二つの村名、穏田村・原宿村は明治22年まで残っていたが、その後の市町村制の変遷の中で、千駄ヶ谷村の大字原宿・穏田になり、ついには住居表示からまったく消えてしまった。 しかし、商店街名、駅名、神社名などに両方とも名前がそれぞれに残っている。
人びとの暮らしの心情というものはまず定住地への愛しみであって、それは統治者の都合で名を消せるほど浅くはない。
古里を思う気持ちは、陳腐な祖国愛などとは比較のしようがないほど血肉化された感情であろう。
さて、この図は北斎の冒険作と言えるかも知れない。 画面に大きな円弧若しくは円を取り入れた風景画と言うのは、構図的に非常に難しいと思われる。
が、北斎は『冨嶽三十六景』シリーズの中で、本図以外にも、『尾州不二見原』、『深川万年橋』の合計3枚にこれを取り入れ、大胆な構図の組立を成功させている。
画面半分に、大きな水車の半円と水車小屋が描く直線とを配して幾何学的姿をせり出させ、これに遠景の富士と棚引く霞とを配置して、奥行きのある絵に仕上げている。
のみならず、この図にもまた、人びとの暮らしの日常的姿を書き込んで、物語を語らせている。
男たちは収穫した小麦の粉ひきであろうか、女たちは水車を廻す疏水で洗い物、そして子供は玩具代わりの子亀を引いている。
豊かな農村の稔りの歓びに溢れた図である。
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