"Thirty-Six Views of Mt. Fuji/Sundai, Edo" Hokusai Katsushika
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「東都」とは西の都・京都に対して江戸を表す言葉であるが、言葉の響きにはますます拓けゆく江戸を誇る気分が漂っている。 「駿臺」は言うまでもなく駿河臺を縮めたものである。
駿河台の名前の由来は後述するが、ここは武家屋敷が密集する高台であった。
駿河(静岡県の中部)は家康の本拠地であり、この地で没してもいるので、家康が「神君」と呼称されたこの時代の江戸人たちには「駿河」の言葉は特別の価値を持っていたのではあるまいか。
秀吉などが「神君」などと言う仰々しい呼称を聞けば、「ほお、あのタヌキ爺ぃは死んで神様になったのか」と呆れるに違いない。
『東都駿河臺』と言わずに『東都駿臺』と縮めた言い方に、「おうよ、ここがその江戸の駿台よ」と言うような気負いが感じられる。
神田駿河台と本郷湯島台とはもともと一つの本郷台地であったが、元和6年(1620)、二代将軍徳川秀忠の命を受けた仙台候伊達政宗が仙台堀を開削し、二つに分かれた。 千駄木辺りから南に向かって西洋人の鼻みたいにだらりと垂れ下がる本郷台地の先端を仙台堀が切り取って神田駿河台に分けて隅田川に流れ込む。 やがて仙台堀は神田川と呼ばれるようになり、今日でも神田駿河台と本郷・湯島の間を分かつように流れている。
尤も、江戸人の優越意識をくすぐった駿河台の呼び名も、現在では千代田区神田駿河台一丁目・二丁目と格下げになってしまっている。
さて駿河台の名前の由来のことである。
『江戸名所図会』によれば、駿河台は「昔は神田の臺と云う。此の所より富士峯を望むに掌上に視るの如し。故に此の名ありと言えり。 一説に昔駿府の御城御在番の衆に賜りし地なる故に号とすといへども、證(あかし)なし。」と記されている。
今日でも駿河台の名の由来を、家康の没後に家康付を解かれた旗本(駿河城在番衆)たちが江戸にもどって与えられた土地なので駿河台と称した、と言う説がまかり通っている。
しかし、『江戸名所図会』で「證(証、あかし)なし」とするのを覆す根拠を少なくとも私は知らない。
旧字の「臺」は訓では「うてな」と読み、例えば「蓮のうてな」と言えば立像や座像の仏像が据えられている、蓮の花びらに囲まれた台座のことであり、あるいは台地のことである。
神田駿河臺の場合、台地の上に富士すなわち駿河が乗っかって見えるから「駿河臺」と称された、と自然に考えてよいのではないか。
どうしても駿河城在番衆移住説に拘るなら、江戸切絵図などで駿河台一帯に「駿河城在番衆」の屋敷を見つけなければ証明できない。 家康の死後に駿河城在番の任務を解かれた、そこそこ数の在番衆が江戸に戻って駿河台に屋敷を構えたはずである。
後年、駿府勤番となって駿府に赴任した榊原香山が天明3年(1783)に著した『駿河国志 8巻』(国会図書館デジタルコレクション所蔵)には、在番衆の記録がある。 寛永9年より明和7年までの駿河在番の武士名などの記録である。 駿河台に移った在番衆の子孫がその任務を引き継いで派遣された可能性もある。
「駿河台」の由来を想像させるもう一つの事実がある。
『駿河台小川町絵図』(嘉永3)の駿河台の場所には、「駿河守」の屋敷が三つある。
信濃高遠藩内藤駿河守(3万3千石)の上屋敷、今治藩久松松平駿河守(3万5千石)の上屋敷、平賀駿河守の屋鋪がそれである。
平賀駿河守(勝足)は大目付で岩場高級官僚であり屋鋪も小さいが、内藤駿河守と久松松平駿河守はれっきとした大名でその上屋敷は広大である。 内藤駿河守については『富嶽三十六景 駿州大野新田』の解説で既に触れたが、東京新宿の地名の由来となった大名である。
久松松平駿河守は家康の母「於大の方」が知多郡阿古居城主久松俊勝に再嫁した家であり、家康は久松家に松平を名乗らせて厚遇した。
「駿台」の由来に拘って字数を費やしてしまった。
この図は仙台堀(神田川)の向こう側に不二が見えるので、湯島側から眺めた図である。
駿台の高台には武家屋敷の屋根瓦のみが見えるが、北斉は瓦屋根の表現にほとんど濃紺を使っているのに、この図では珍しく茶色に仕上げている。
暑い夏の陽に焼けた屋根を表現するためにこの色を採用したのであろうか、大きな荷物を運ぶ行商人は頭上に扇子をかざして日差しを避けている。
彼方に不二を臨む空はうだるような暑さを表して赤く濁っている。不二の冠雪の多さが気になるが或は初夏なのか。 仙台堀の掘削の跡が荒々しく表現されて見事なのは摺師の技に拠る。
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