"Thirty-six Views of Mt. Fuji/ A sketch of the Mitsui shop in Suruga in Edo" Hokusai Katsushika
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19世紀末に「権力は腐敗の傾向がある。絶対的権力は絶対的に腐敗する」と今日にも通ずる格言を残したのは、イギリスの歴史家で政治家でもあったアクトン卿である。
お馴染みの水戸黄門のドラマでは、「ふふふ、越後屋、おぬしも悪よのぉ」と薄笑いを浮かべながら小判の山を受取る高級役人が出てくる。
現在でもこの類いのニュースは珍しくもない。 後に残るのは、水戸黄門のドラマのように溜飲が下がる爽快感ではなく、一週間も便秘が続いているような不快感のみである。
さて、同じ越後屋でもこの図の越後屋三井見世は違う。 この越後屋は己自身の革命的才覚で事業の発展を勝ち取ったのだ。 伊勢松坂の商人三井高利のことである。
高利は商家に生まれたが、紆余曲折が有り、彼が江戸に出て商売を始めるのは意外に遅く、延宝1年(1673)、52歳のとき江戸本町(現日本橋本町一丁目辺り)に小さな呉服店「越後屋」開業したのが始まりである。
それから10年後に駿河町に移転して大店を構えるまでに発展する。 当時とすれば画期的な商法で大成功をおさめるのである。
それは定価販売と現金販売という、今日では当たり前、当時としては画期的で価格破壊的な商法が消費者の圧倒的支持を受けたことに因る。
三井高利は大変なアイデアマンであったようで、「引札」と呼ばれるチラシを配ったり、雨の日には越後屋のマーク「丸に井桁三」が書かれた番傘を無料で貸出したり、これもまた現代と全く同じような広告手法を発案している。
雨の日の日本橋界隈は越後屋の印が書かれた貸し傘が行き交って壮観であったであろう。 高利のことだから傘の色を幾つか取揃えて通りの賑わいに花を添えたに違いない。
江戸時代の川柳句集『誹風柳多留(はいふうやなぎだる)』には、「江戸中を越後屋にして虹が吹き」という句がある。 俄雨の後に虹が現れ、江戸中が越後屋の貸し傘であふれかえっている様子をやや大げさに表現している。
あるいは「虹が吹き」とは、色とりどりの貸し傘が咲き乱れたことを虹に象徴したのかも知れない。
余談だが、傘にちなむ話を少ししよう。
幕府が江戸地誌『御府内風土記』(文政12年(1829)完成)を編纂するにあたり、備考として整理した資料『御府内備考』「巻之71 青山之二」には、青山浅河町(現北青山2丁目辺り)に「傘町」と俗称される地名があったことが記されている。 「古傘張替商売之者多く居住仕候」故にこう呼んだと書かれている。
また、同「巻之70 青山之一」には甲賀町と俗称される甲賀百人組屋鋪が並んでいたとの記述もある。 この辺りには土木技術に優れた集団の黒鍬者も町屋敷を拝領している。
これらの武士は屋敷地70坪程度の下級武士で、江戸時代も後期になると彼らの特殊技能はさほど重宝されなくなり、困窮して傘張りの内職を始めたのではないか。
北斎は『富嶽百景第三巻 青山の不二』では青山の特産品傘を作画のモチーフにしている。
江戸時代の青山は傘の生産で名が知られていたようである。
越後屋に戻る。
三井越後屋呉服店は今日の三越百貨店に発展するが、当時の駿河町通り(現通称江戸桜通り)の左右には越後屋の大店が並び、通りを見通した正面には不二が見えた。 駿河町は日本橋を北に渡って200m余り進んだ左側にあった。
この界隈の賑わいは、広重の『東都名所 駿河町之図』や『名所江戸百景 するかてふ』の方が分かりやすい。 『江戸名所図会』でもほぼ同じ様子である。
また、歌川豊春の『 浮絵駿河町呉服屋図』や、奥村政信『駿河町越後屋呉服店大浮画』は、いずれも三井呉服店の内部を描いた図で、店内の大きさを遠近法で表している。
江戸時代は遠近法を用いた図を浮絵、浮画と言った。
越後屋の駿河町北側の江戸本店の間口は35間(約68m)、南側の向店の間口は21間(約42m)もあった。
この図は、屋根の破風の三角を不二に相似させたり、凧が揚がったり、瓦職人が屋根修理をしていたり、『富嶽三十六景 東都浅艸本願寺』の構図にやや似ている。
ただ、屋根の破風の三角の向きはおそらく北斎の創作で、他の絵師ではこの向きではなく、また『江戸名所図会』の図では破風のある構造の屋根ではない。
版元永寿堂西村屋予八は抜け目のない商人で、永寿堂の「壽」の文字を凧に書き込んでいる。 このシリーズの他の図にも見られる企みである。
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