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Thirty-Six Views of Mt. Fuji/Nihonbashi bridge in Edo" Hokusai Katsushika

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政治家が最優先政策課題を言い表すのに「一丁目一番地」とよく言うが、単なる修辞的印象が強い。 しかし庶民気分で言うと、江戸時代の日本橋はまさに文字通り、江戸の町の「一丁目一番地」であったようだ。 いや、日本橋に対するその気分は昭和時代まで続いたと言えるかも知れない。
現在の東京都中央区日本橋1丁目1番地は「日本橋」の南詰めがそこであるが、上を首都高速が走り、江戸の町を代表してきた「一丁目一番地」的な面影はもはや感じられない。
江戸時代には、いわゆる五街道(東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道)の起点がこの日本橋である。 日本橋を出発して最初の宿は、東海道が品川宿、中山道が板橋宿、甲州街道が内藤新宿、日光街道と奥州街道が千住宿で宇都宮宿に至ってそれぞれに分岐する。
当時の参勤交代などの事情を考えると、諸街道の最終結節点としての日本橋が突出して発展したのも理解できる。

しかし、家康が移封になった天正18年(1590)の頃の江戸は、太田道灌が築いた江戸城すら荒廃していた有様で、家康はまず領国経営のインフラ整備からはじめた。
大久保長安、青山忠成、伊奈忠次、長谷川長綱、彦坂元正らを関東代官として任命し、江戸開発に当たらせる。 伊奈忠次については『富嶽三十六景 深川万年橋下』でも少し触れた。
初期の頃から「道三堀」が海運と防御を兼ねて開削され、続いて掘られた平川(日本橋川)を経て江戸湊に至る運河が開通した。その平川に架けられたのが「日本橋」である。

江戸の発展は、①埋め立てによる市街地と農地の造成、②運河の開削による海運と低湿地の排水、と言う巨大な土木事業に依存した。
当然、膨大な労働力を必要としたが、徳川幕府が成立すると「千石夫」と言われる人夫役が諸大名に課せられた。これは石高千石に1人の割合で人夫を供出する制度で、江戸初期の全国石高は約2千5百万石だから、単純計算で2万5千人もの動員となる。
これが雇用と消費を生み、生産農地の拡大と海運を主とする流通がこれを支えてきたと言える。

やがて江戸の人口は18世紀の初めには100万人を超えたと言われるが、その頃に100万人を超えていたのは北京、広州、ロンドンだけで、パリが55万人、ニューヨークにいたっては6万人弱である。(イアン・モリス,歴史学者 スタンフォード大学教授の推計)

この巨大都市の中心地日本橋の北詰の室町一丁目~三丁目は老舗の商店が数多く軒を連ねる江戸の目抜き通りであった。
その代表格は三井越後屋呉服店(現在の三越百貨店)である。この店の一日の売上が俗に千両と言われたが、「1日の売上高は、・・・そばに換算すると、1杯16文として17万168杯分に当たると計算しており」(江戸食文化機構 監修・著 松下幸子千葉大学名誉教授より)
と大変な額であった。 当時のそば1杯の値段が現在のうどん1杯600円と同じくらいであるとして現在の売上に換算すると、何と一日の売上が1億円余りにもなる。

また、7世紀の初めの頃から、日本橋と江戸橋の間の日本橋川北岸に沿って魚河岸(日本橋魚市)があり、1935年に築地市場へ移転するまで続いた。 『富嶽三十六景 深川万年橋下』の解説で触れた深川芭蕉庵は、芭蕉門人で日本橋の魚問屋・鯉屋の主人でもある杉山杉風が鯉屋の生簀の番屋を芭蕉に提供したものである。

さてこの図の主題もやはり日本橋の賑わいであろう。
東西に流れる日本橋川(平川)を南北に跨ぐ日本橋の上を多くの人たちが行き交っている。左右には蔵が立ち並び、運河を利用した物流が盛んである様子が描かれている。
正面に見えるのは日本橋川の終点に架かる一石橋で、その向こうには江戸城の外濠川が左右に広がる。

この図は富士、江戸城と日本橋上のバランスをとるために視点を高くとり、やや俯瞰した感じで描いている。
「富士はその方向には見えない」とこの図の構成を「北斎の拵えだ」とする解説もあるが、日本橋と富士山頂を直線で結ぶと桜田門を僅かにかすめるので、富士より少し右に江戸城天守が見えることになる。
歌川広重の『江都名所日本ばし』でも日本橋と江戸城天守と富士はこの図の位置関係と同じに描かれている

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